【7月24日】近藤先輩とわたし ~竜宮城と夏の夜の夢編~2日目

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【7月24日】近藤先輩とわたし ~竜宮城と夏の夜の夢編~2日目

 船の上で寝るなんてなかなかない経験だ。  ベッドはふかふかで比較的安眠はできたものの、目が覚めた時は言い表しようのない不快感に苛まれた。ずっと気分が悪くて水を一杯飲んでからトイレに引きこもっていた。つまり船酔い。空っぽになった胃の中をぐらぐらゆすぶられて、こんなに気分の悪いことはない。 「あら、シラタキさん。おはよう」  先輩は既に起きていた。ホテルに設えてあるような簡素な和服姿でリビングの椅子に座り、優雅に紅茶を飲みながらパソコンで動画か何かを見ていた。 「おばようごじゃいまず」 「船に酔った? 冷蔵庫にコーラがあるから飲むといいわ」 「コーラ……重たいものを……」  とりあえず言われたとおりにコーラを取り出し、コップにそそいで飲み干した。コーラなんて普段は飲まないから、ちょっとおいしく爽やかな味わいを感じる。ちょっとだけ気分がよくなった気がした。  すると先輩はずんずんといきなり歩み寄ってきて、わたしの右の手をぐいっと引っ張った。そして、わたしの手首の辺りに親指と人差し指をやって、万力のように外側と内側に突き立てて、いきなりぐっと押した。 「痛い痛い痛い痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」 「内側が『内関』、外側が『外関』。乗り物酔いに効くとされるツボよ。気分が悪くなったら自分で押してみるといいわ」 「うっぷ。すみません、ちょっと」  さっきのコーラと相まってげっぷが出そうになってしまったので、わたしは慌ててデッキに出た。そうしてげっぷといっしょに胃袋の中のなんだか気分の良くないものまで、空気として出してしまうと、ちょっと気分がよくなった気がした。 「気分がよくなったかしら?」 「まあ、はい」 「朝食はサンドイッチにしましょう。もう作ってあるから、好きなように食べていいわ」  キッチンの近くに据えられたダイニングテーブルの上には、確かに銀色の皿の上に盛り付けられたサンドイッチがあった。スクランブルエッグはとろとろのふわふわで、レタスはシャキシャキしていて、トマトとベーコンの色が爽やかに映えている。ポットの中にはコーヒーがぐらぐら沸いていて、マグに注ぐときりっとした苦みと、薄めの味付けがわたしの目を覚ます。 「美味しいです。これ先輩が作ったんですか?」 「卵やパンは悪くなる前に消化してしまわないと」  生々しい。そういえばここは船上だったのだ。      ○  話は昨日の夕方にさかのぼる。 「ひ、暇つぶしって一体なんですか……」 「ホテルでやることといえば一つじゃない」  やっぱり!  これは誘拐だ。拉致監禁だったのだ。わたしはこの、叫べども叫べども助けなんてくるはずもない海の上で、この先輩に好き放題に体を嬲られ、好き放題されて、抵抗もできず、最後は口封じに海に投げ込まれてしまうんだ。 「やめて! わたしにひどいことするんでしょう!?」 「そんなことしないわ」  すると先輩はエプロンのポケットから何かを取り出した。それは…… 「え……トランプ?」 「ババ抜きをしましょう。負けた方が皿洗いをするの。どう? パスタが茹で上がるまでに、ちょうどひと勝負くらいできるわ」 「あ…………そうですか」  というわけでわたしたちはダイニングテーブルに対面で座りババ抜きをすることにした。台所からは小麦の麺が茹だるとてもいい匂いがする。 「ババ抜きはもともと51枚のカードで遊ばれていたの。クイーンを一枚抜いて、最後まで残った人が負け。ババ抜きは英語では『オールドメイド』というのよ。生き遅れの女という意味ね」 「へー。それってジジ抜きみたいですね」 「というわけで古式に則ったオールドメイドをしましょう。スペードのクイーンを抜きます」  先輩は手慣れた動作でカードを混ぜていき、カジノのディーラーみたいにテーブルにばっとカードを並べた。そして一枚ずつびっ、びっ、びっ、という感じで投げてわたしによこす。わざわざキャッチしなくても、ピタリと手元で静止するのは名人芸、妙技というほかない。 「先輩はこういうの慣れてるんですか?」 「親戚が集まるとね。いつもディーラーをやらされるの。年に一度は親戚がこういう風にクルーザーに寄り集まって、夜はワインを片手にバカラに興じたものよ」  スパイ組織か何かなのか。  わたしは先輩と無言でババ抜きに興じた。ひいては捨てひいては捨て。手札を混ぜてひいては捨て……  あっという間に最後の二枚になった。つまりわたしがクイーンを握っているのだ。これはいわばババ。これが手元に残ったら負け。  先輩はじとーっとした目でわたしのことを見ている。わたしはなんとなく居心地悪くなってさっと目を逸らした。 「こっちね」  と、確信を持った口調で先輩は、わたしの手札に残ったクラブの8を引っこ抜いた。 「あっ、」 「私の勝ち。さ、パスタも茹で上がったわね、シラタキさん、カードを片付けておきなさい」  先輩はそそくさと台所に戻っていく。  わたしは大人しくカードを片付けながら、先輩に尋ねた。 「なんでわかったんですか?」 「シラタキさんが愚か者だからよ」 「あそうですか」 「そうよ」  否定して欲しかった。 「本当は?」 「シラタキさんにあえてプレッシャーをかけてみたの。そしたら、目を逸らす直前に、ちらっと左側のカードに視線をやったのよ。人間は、目を逸らしたり、何かから逃避する行動をするときには、自信のあるところよりも、自信のないところに注意を払う傾向があるの。だから、あなたが視線をやった方のカードは、引かれたくない方のカードだろうと推測したの。小学生でももっとポーカーフェイスがうまいわよ、シラタキさん、己を恥じなさい」  すらすらと言っている間にも先輩はパスタを湯上げしてさらに盛り付け、同時進行でフライパンにパスタソースの材料らしきものをたくさん放り込み、香ばしい香りを漂わせてくる。  その手際は当たり前のように鮮やかだった。まるで料理番組を見ているか、プロのキッチンを見ているようだった。 「いつも、こんな感じで自炊してるんですか?」 「いいえ。普段はもっと安上がりなもので済ませているわ。スーパーのお惣菜だって買うし、カップ麺も食べることはあるわ」 「へぇ。なんか意外です。そういうの、体に悪そうだから食べないと思ってました」 「うむ……」  と、先輩は急に漢らしいため息をついた。 「『防腐剤、着色料、保存料……様々な化学物質、身体によかろうハズもない。しかし、だからとて、健康に良いものだけを摂る。これも健全とは言い難い。毒も喰らう、栄養も喰らう。両方を共に美味いと感じ、血肉に変える度量こそが食には肝要だ』」 「なんですかそれ」 「とある漫画の食事シーンでのセリフよ。それまで食には気を遣っていたのだけれど、そのシーンには感銘を受けたわ。以来、毒も薬と思って実践しているの」 「毒って、食事に毒を混ぜられるようなことがあったんですか?」 「ええ、昔はよくあったわ。食べるものには細心の注意を払っていたのだけれど、最近はもう気にしないことにしたの」  普通にいうので、本当か嘘かも分からない。どっちにしてもあまり突っ込んで聞かない方がいいことのように思えてきた。 「さて、こんなものかしら」  皿に盛り付けられたパスタは、たっぷりの野菜とベーコンが盛り付けられたものだった。とろみのあるクリームソースと黒胡椒の風味がなんとも食欲をそそる。  先輩は冷蔵庫から取り出した緑色の瓶の炭酸水をコップに注ぎ、向かいの席に着いた。 「いただきま……」 「パスタソースに毒なんて入ってないから安心しなさい。本当よ? 本当にパスタに毒なんて入ってないのよ?」 「食べづらい!」  しかし美味しかった。  こんなに美味しいパスタを食べたのは生まれて初めてだ。わたしも一人暮らしの大学生、たまにパスタくらい食べるが、正直そんなの霞むくらいの美味しさだ。 「おいひい……!」 「こっちの炭酸水も飲むといいわ。おじのお気に入りの品なの」  とろっとした濃厚なクリームソースと野菜が絡み合う口の中に、炭酸のさわやかな香りが溶けていく。  なんだか豪華なクルーズ船に乗っている気分になってきた。なんて楽しい一日なんだろう。  もぐもぐ食べるわたしを見ながら先輩はつんとした無表情でいた。そして自分もパスタを食べ終えると、早く皿を洗えと言わんばかりにこちらに食器を押し付けてきた。正直こんなにおいしいものを食べたのだから、皿洗いくらいじゃぜんぜん割りに合っていない気がした。  食後はのんびりと読書をして過ごした。先輩はワインを片手にジュークボックスからジャズの調べに耳を傾けていた。外はすっかり暗くなって、海は一面暗黒の世界だ。  わたしは夜の海風にあたりにデッキへと出た。  無理やり連れてこられたと思ってきたけれど、こういうのも悪くないかもしれない。 「シラタキさん」 「白滝ですが」 「シャワー、空いたわよ。寝るときは向こうの個室を使いなさい」  振り返ると先輩がバスローブ姿でそこに立っていた。夜風にほてった体がよく生えて、まあドキッとした。 「何よ」 「な、なんでもないです」  シャワー、空いたわよ、なんて。  まるで同棲でもしているみたいだ。変に意識してしまう。  わたしは意外と快適なシャワーを浴びて、思っていたより広かった個室のベッドで眠った。      ◯  そして、今朝に至るのだ。  朝からはひたすら課題を片付けることに費やした。一晩過ごしてずいぶんこの環境にも適応というか、慣れてしまったので、それはそれは捗った。  どれだけ捗ったのかといえば、正午を回る頃には、もう持ってきた課題を全て片付けてしまうほどだ。 「くぁ」  大きく伸びをして、わたしはコーヒーをポットから注いで飲んだ。  そういえばリビングに先輩がいない。テーブルの上には雑に広げられた資料や文献が散らばったままだ。わたしは先輩を探してデッキに歩み出た。先輩はタラップをのぼった二階のオープンデッキにいた。 「ふっ、ふっ、ふっ」  スポーティなセパレートの水着姿で、なぜか一心不乱に腕立て伏せをしていた。  顎から汗がだらだら流れ落ち、あらわになった背筋がきらりと輝いていた。 「うわ……」 「あら、シラタキさん、あんまり、いい趣味じゃ、ないわね、人の、筋トレを、邪魔するなんて」  よっと先輩は当然のように倒立した。  筋肉に引っ張られた体のラインが、艶かしく汗に輝いていた。 「なにやってるんですか?」 「筋トレよ。今日は体育の日あらため、スポーツの日じゃない。あなたも運動をしてみたらどうかしら、シラタキさん。若い肉体を維持するのは並大抵の努力ではできないことよ」 「は、はぁ……」 「着替えはそこに用意しているわ」 「いつの間に!」  先輩の色違い、セパレートの上下の水着。  いざ着替えてみると、なんとサイズがぴったりだ。 「なんでこんなものを……」 「あなたの貧相な身体つきから、スリーサイズくらい、服の上から見ただけで瞬時に判別できるわ」 「失礼な。わりとありますよ!」  そりゃ先輩ほどじゃないけど。 「しかしあなた……脱いでみるとほんとにだらしのない身体つきね。自分の身体が醜くなっていくのを日に日に感じていて、恥ずかしさを感じないのかしら。そこが愚かだというのよシラタキさん!」 「や、そんなに……そんなにアレじゃないと思いますけど……」 「思いたいだけでしょ!」 「うっ!」 「現実から目を逸らしていても、贅肉は逃げていくばかりだし、身体は衰えていくばかりなのよ! シラタキさん、いい機会だから、徹底的に鍛え直してあげるわ」  近藤先輩のくせにまともなことを言われているし、わたしもぐぬぬと唇を噛んだまま言い返すことができない。そりゃわたしだって女の子だ。日に日に体重には気を遣っているつもりだし、贅肉がつかないように普段からカロリーとか塩分とか気にするようにしているつもりだ。 「つもりじゃダメなのよシラタキさん」 「白滝で……」 「シラタキさん! あなたのそのぷるっぷるの二の腕と下腹はごまかせないわ」 「うぅっ!」  うまいこと言ってくる! 「わかりました、で、なにをするんでしょうか。海だから泳ぐとか?」 「バカねシラタキさん。溺れて死んだときに誰が責任を取るつもり? 私は嫌よ」 「ひど」 「愚かで出不精……いえ、デブ症のシラタキさんのために、」 「ちょっと! そのアクセントの置き方は……」 「何か違うというの!?」 「ちがいますん」  なにも違わない。 「散々、方々で言い尽くされたことではありますが……」 「はい」  謎の敬語で先輩は講義を始めた。 「人間の体というのは、絶えず動いているの。エネルギーを補給し、それを燃やして活動し、またエネルギーを補給する。地球が常に自転しているように、人間もまた循環しているのよ」 「はい」 「そこで、やれ食事制限だの……やれ糖質カットだの……そんなことは体をいじめるばかりで、全く効果をなさないの。ではどうするのか? 簡単よ。体のほうの循環を整え、活性化すればいいの。取り入れたエネルギーを余すところなく、最大限に活用することで、私たちの体は整えられるのよ」 「なるほど」 「筋トレというのは、そのための手段の一つであるの。しかしシラタキさんには、腕立て伏せを三回ほどもできなさそうなひ弱なシラタキさんには、もっと根幹からの鍛え方を教えてあげましょう」  先輩はどこからかヨガマットのようなものをばっとデッキに敷き、うつ伏せに寝転がった。  腕を直角に曲げて肘で体を支え、頭をぐいと持ち上げる。頭から背中、腰、足にいたるまで、きれいな直線を描く。 「あ。知ってますそれ、プランクですよね」 「ええ、体幹トレーニングの一種ね。シラタキさん、まずは30秒やってみましょう」 「いやいやそんな。30秒くらい余裕ですって」  さすがにそれはバカにしすぎだろう。  さて、わたしも隣のヨガマットに肘をつき、体を持ち上げた。割とすんなり落ち着く。これで30秒はまあまあ効くかな、くらいの負荷だ。  しかし先輩がおもむろにわたしの身体に触れた。 「ぜんぜん違うわ、シラタキさん。プランクは、ただやるだけならそんなに難しくないの。『ちゃんと』やるから意味があるのよ」 「というと?」 「いまのシラタキさんは、膝も曲がっているし、背中が湾曲しているわ。つまり、楽な姿勢をとっているの」  こんな感じよ、と先輩がわたしの真似をしてくれた。なるほど、たしかに見栄えが悪い。先輩みたいにぴしーっとまっすぐなプランクにはなっていない。 「でも、自分で自分の姿勢って、よく分からないんですよね」 「だから直してあげるわ。さ、まずはお腹を持ち上げるの。腹筋を真ん中に集めるイメージで……」 「こうです……!?」  やってみてわかる辛さ! 「きっつ……!」 「いい感じよ。ほら! 膝が曲がってる、伸ばすのよ」 「痛い痛い、お腹痛い……」 「いま、おおよそ良い姿勢ね。さ、これで30秒、キープしてみなさい」 「む、無理無理……!」  こんなの30秒も!?  つらすぎる。とてもじゃないができる気がしない。10秒あたりですでにわたしの体は悲鳴を上げていた。 「ひぃ〜」 「その調子よシラタキさん。ちなみにプランクの世界記録は8時間15分、62歳のおじいさんが達成したそうよ」 「は、8時間……この体勢で……!?」  それはもう……もうなんかもう……お腹が焼けそうに熱い! それに二の腕もぶるぶるしてきた。 「まだですか先輩!」 「あと10秒」 「ひぃ〜! むりむり〜!」  しかしわたしはやり切った。  たった30秒なのになんて情けない。もう汗がだらっだらと出てきて、体じゅう熱かった。 「ひぃ、ひぃ」 「情けないわねシラタキさん。よかったらこれから毎日やるといいわ」 「そんなぁ〜、ち、ちなみに、先輩の記録はどのくらいなんですか?」 「あんまり長さを測ったことはないけど、5分くらいならできるわよ」 「げげー」  この人、涼しい顔して意外となんでもできるよなぁ。そりゃスタイルも抜群なわけだ。 「ん、先輩って、毎日やってるんですか?」 「ええ」 「すごい、その、モチベーションはどこから?」 「ふふ……」  先輩はとつぜん、ミステリアスに笑った。 「妥協しないこと。私の人生において、いい加減とか、だらしなさとか、そういうことは我慢ならないの。なんだって勉強してきたし、なんでも身につけてきた。できないと、悔しかった。自分はもっと良い人間になれるはずと、そう信じてやってきた。努力してきたの」 「努力……」 「だからねシラタキさん! 努力もせず、なあなあに日々を呑気に過ごしているあなたみたいな人を見ると、無性に腹が立つのよ。放っておけないの。腹が立つの。腹が立つのよ!」 「三回も言わないで!」  ふんっと先輩はいつの間にか取り出したボトルから、スポーツドリンクみたいな飲み物を口に含んだ。 「あなたも飲みなさい」 「はぁ」  先輩の飲んだボトルからスポーツドリンクみたいな飲み物をわたしも頂いた。というかスポーツドリンクだ。汗の流れた身体によく染みた。 「さあ、先は長いわよシラタキさん。みっちり鍛えてあげるからね」 「か、勘弁してください〜」 「やり切った暁には、極上のディナーが待っているわよ」 「ご、極上の……?」 「船の上で炭火のバーベキュー、ジンギスカンもあるし、野菜もたっぷり用意しているわ。疲労し、あえぐ身体に、動物から得た血肉を注ぐ、その快感があなたにも味わえるはずよ」 「肉……血肉……」  ここは世紀末なのか?  まだ2日目なのに、飛ばしすぎな感じのクルージング、昼下がり。  しかし炭火のバーベキューを想像すると、なんともたまらない気持ちになってくる。
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