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【7月25日】近藤先輩とわたし ~竜宮城と夏の夜の夢編~3日目
激しい筋トレにより重たくなった身体、ああ明日は間違いなく筋肉痛に喘ぐのだろうな、そんな体を引きずってわたしは夕食の場に赴いた。先輩はセパの水着のまま、うえに真っ赤なパーカーを着て、バーベキューセットと睨めっこをしていた。
セットの中には黒々と輝く木炭がすでに敷き詰められていて、その奥の方で真っ赤な火が燻っている。
「シラタキさん。夜は冷えるから、上に何か羽織りなさい」
先輩がよこした黒いウィンドブレーカーをわたしも水着の上に着た。たしかに夏とはいえ、海の上の夜の冷え込みは予想以上だ。身体が芯から凍えるような感じがする。
二階部分のオープンデッキには、いつの間にかキャンピングチェアと折り畳み式の机、そのうえには野菜と肉が所狭しと並んでいる。先輩はうちわで炭火に風を注意深く吹き込ませているところだった。
「わ……こんなにいいんですか?」
なんだか申し訳ない気分になるくらいの量だ。こんなにたくさんの肉を食べたことはない。目の前にはまるで宝の山が積まれているかのような、そんな気分にさせられる。
「お疲れさま、シラタキさん」
「白滝です」
「今日は疲れたでしょう。いっぱい食べてそれから眠りなさい」
先輩はいうが早いか、肉を早速取り出して、トングで網の上に並べ始めた。ジューっという音は嫌でも食欲をそそる。
「タレや味付けはそこにあるものを適当に使いなさい。ビールもあるけど、ほどほどにね」
「や、わたしまだ19歳なんで……」
しかしわたしは先輩と椅子を並べ、たっぷりのタレを注いだお皿をスタンバイ。
「新鮮で上等な牛肉だから、多少は生でも問題ないわよ」
先輩はまだすこしほんのりと赤いお肉を割り箸で網の上からひょいと取ると、そのまま口の中に運んだ。
「うん……なかなかね、美味しい……」
もぐ……もぐ……
じっくりと、かみしめるように味わうその顎の動きにわたしはすこし色っぽさを感じた。
「あなたも早く食べなさい。焦げるわよ」
「あ、はい」
というわけで、お言葉に甘えてひとくち。
「んん〜!」
口の中でとろける!
タレの味わいと、脂がほどよく絡み合い、それでいてほぐれやすく、かつ筋はしっかりしていてかみごたえもあり……考えうる限りの肉の美味しさが詰まったようなお肉だ。
「美味しいです!」
「どんどん食べなさい。これはハラミで、こっちがモモ肉。どちらも今日のシラタキさんにぴったりよ」
先輩はトングで次々に肉を網に並べていく。
「あ。ごめんなさい、そういうのは後輩のわたしがやりますから」
「結構よ。下手くそに焼かれる肉よりましだもの」
「た、たしかに」
バーベキューの経験は皆無だ。わたしは先輩が焼いてくれた牛ハラミをいただく。
「これもまた美味しいですねえ。でも、わたしにぴったりってどういうことですか?」
「同物同治という中国の考え方よ。体の不調や疲労を回復するには、動物の同じ部位を食べると良いという考え方。シラタキさんは今日、身体中の筋肉を動かしたから、特に疲労の激しい部位の肉を摂取することで、より体は進化するの」
「進化……?」
「さあ、焦げる前に食べなさい。野菜もたくさんあるわ。焼肉と一緒に食べる野菜は、胃腸の負担を軽減し、胃もたれを抑止する効果があるの」
先輩はキノコ類やキャベツ、ナス、カボチャなどを次々に網に乗せ、わたしはそれらをとにかくたくさん食べ続けた。そのうちにわたしは楽しくなってきて、我を忘れて食に興じた。
とにかく疲れていたのは事実だし、お腹も空いていた。先輩に肉を焼かせていることへの遠慮とか、そういうことは全部いつの間にか吹き飛んでいた。
「ごちそうさまでした」
「後片付けはこちらでやっておくわ。シラタキさん、シャワーを浴びて寝なさい。睡眠もトレーニングには大切な要素よ」
「いえ、さすがにそれは。手伝いますよ。先輩にやってもらってばかりだと、気が引けますし」
先輩はふう、とため息をついた。
「じゃあ、しょうがないわね。シラタキさん程度にでもできることをお願いするわ。そこの椅子と机を拭いて、畳んで、リビングの奥の物置にしまっておいて頂戴」
「わかりました」
それくらいなら簡単だった。わたしは言われた通りに机や座面を拭き取り、折り畳んで、階段を使ってリビングに運び込んだ。
「物置、物置……あっ、ここかな?」
扉を開くとそこにはたしかに物置らしく雑多なものがたくさんあった。釣竿やクーラーボックス、椅子と机など。わたしは適当にそれらしい位置に机と椅子を積み上げた。
「うっ、いてて」
もう筋肉痛が来ている。これはわたしがまだ若い証拠か? とにかく腹筋が痛い、そして腕や足がずきずきする。
「あっ、うわあ!」
突然、船が傾いた気がしてわたしは倒れた。その拍子に積まれていた荷物、片隅の本棚に刺さっていた雑誌がばさばさと落ちてきた。
「あちゃー……」
怒られる前に元に戻しておこう。
雑誌を拾い上げ、倒れた椅子や机を元に戻す。おおむね元どおりになったところでわたしは物置を出て、デッキに戻った。
「先輩〜。片付けましたよ」
ところが先輩はいなかった。
デッキは綺麗に片付けられていて、もぬけのからだ。
先に部屋に戻ったのかな、と思ってリビングに降りても、人の気配はない。ひっそりとしている。
シャワー室も、寝室も、キッチンも。操舵室にも。どこにも先輩がいない。
「あ……!」
デッキに出ると、先輩が着ていた赤いパーカーが乱雑に転がっていた。今にも風に飛ばされてしまいそうなところを、慌ててキャッチした。まだ先輩のぬくもりと匂いがわずかに残っていた。
そう、風が強い。
外の景色を見て、初めて船がぐらぐらと揺れているのに気がついた。
「まさか……!」
先輩、まさか!
ここから落ちたのか? いや、それならなぜここに服が残っているのか、わざわざ脱いでから海に落ちた? それは飛び込んだのではないだろうか。ひと泳ぎしに海へ出たのでは? そうに決まってる。
だいたい、わたしがひとりでこの船の上に残されたら、誰がどうやって戻るのだ。船の運転の仕方なんて知らないぞ。
「ど、ドッキリですよね先輩! たぶんどこかに隠れてるんでしょ、まったくもう。アハハ。冗談きついっすわ〜」
と言いつつ戸棚という戸棚を開き、隠れられるような場所は全部探し、それでも先輩がいないのでわたしはとうとう気持ちが悪くなってきた。焦る。こんなの焦る。
映画で見た。救難信号だ。どうやって? 無線の使い方なんてわからない。
「ど、どど、どうしよう。どうしよう」
手が震えてきた。筋肉痛どころじゃないぞこれ。どうしよう。まずあれか。海上保安庁とかに通報したほうがいいのかな?
「いいえ、その必要はありません」
「誰っ、」
突然の声に振り返りながらも、途中でわたしは気がついていた。この声は先輩だ。そうに決まっている。わたしが通報しようとしたのを察して、いいタイミングで出てきたのだ。もう先輩冗談きついですわぁ〜……
「どうも」
「って、ほんとに誰!?」
そこにいたのは小さな女の子だった。背中に大きなリュックサックを背負っている意外は、まるで近藤先輩をそのまま小さくしたかのような見た目だ。
「私は竜宮の遣いのものです」
「え、あの深海魚の?」
「あんなのといっしょにしないでくださいっ! ギィー!」
「ひぃぃごめんなさい」
怒った時がよく似てる。
こほんと荒っぽく咳払いして、竜宮の遣いは言った。
「我が竜宮城の主人である乙姫さまが、ぜひともあなたをご招待したいとのことでした」
「いや。なに言ってんの? というかどこから入ってきたのよ?」
「当然、海からですが……」
「え、この船浸水してる? 穴とか空いてるの? 大丈夫だよね?」
「というわけで、あなたを豪華絢爛の竜宮城へとご招待します。ちょっと操舵室借りますよ。ちゃんと免許は持っています」
「ええ」
「おまけに私はね、一級深海海技士も持っていますから。無制限で深海への航海ができるんですよ」
わたしは操舵室に共に入った。そして竜宮の遣いが軽やかに舵を切るのを見ていた。
船は明らかに常識を超えた挙動を見せ始めた。ぐわんぐわんと揺れあちこちがたがたと軋み、そして……
「え、沈んでる!? ちょっと!」
「そりゃあ、竜宮城は深海にありますから」
あっという間に船はごーっという音を立てて海の中に潜ってしまった。とりあえず操舵室には水は入ってこなかったが、怖くてリビングの方を見ていられなかった。
「そうだ、シラタキさん」
「白滝! なんで竜宮の人もそう呼ぶのさ、ハッ……!」
これはまさかいつものパターン!
つまり乙姫さまの正体とは……
「シラタキさん。人間が深海に向かう際は、これを服用してください。潜水病を予防する作用があるとされる、深海の秘薬です」
それは明らかに砂だった。
「これもどうぞ」
どう見ても海水だった。
「こんなの飲めないよ!」
「死にますよ。人間がこんな速度で深海に進んでいくと、そのうち血管の中に気泡ができて心臓発作を起こします」
「飲みます」
口に入れると、さわやかな磯の風味と塩味が心地よく……なかった。砂を塩水で飲んだ。そうとしか感じられなかった。
「ぺっぺっ」
「竜宮城まではもうすぐです」
その言葉通り、やがで操舵室から見える景色が変わり始めた。青から真っ黒へ、光の届かない深海に、ぽつぽつと黄色やピンク、赤といった、明るくあたたかい色の光が灯り始めたのだ。
それはまるで、お祭りの縁日のようでもあった。やがて船は緩やかに減速し、ずずん、と海底の砂の上に着底した。
「さ、行きましょう」
「はああああ?」
「いや、行きましょう。乙姫さまがお待ちです」
「出たら死ぬべ」
「死にません、さっきの秘薬にはなんかこう……あの、いろんな効果があるんです」
「いやいや」
しかしわたしは死ななかった。プールの中を歩いているような感じだ。竜宮の遣いに手を引かれ、わたしは竜宮城の入り口を進んだ。
大きな海藻の森が生茂る中に、明らかに人工物である鳥居がずらりとならんでいる。よく見るとそれは貝や石で、器用に作られているようだった。
「おかえりなさいませ、お嬢さま」
「ういー」
「おかえりなさいませ、お嬢さま」
「あいよー」
竜宮の遣いは、おつきのものと思しき深海魚たちにはなかなか返事がぞんざいだ。
しかしわたしは面食らっていた。ここは小さい頃に絵本で聞かされた、『浦島太郎』の竜宮城の姿そのものだ。人間に近い形のわたしと、竜宮の遣いは、形も色もさまざまな魚たちの中でだいぶ浮いた存在だ。
沈んでるけどね!
「いま、つまんないこと考えましたね」
「あっはい」
きっと睨みつけられてわたしの心は比喩ではなく沈んだ。
竜宮城の奥の奥、大きな襖を開き、わたしはその中へ進み出でた。
「乙姫さま! 客人を連れてまいりました」
「ごくろうさま、ツカイ」
ツカイて。
たしかに遣いに出したのだろうけれど、そんな言い方があるだろうか。
そして、案の定というか、なんというか。広い和室の奥の奥、屏風の前にゆったりと寝そべるのは……
「シラタキさん」
「いや白滝です」
「だいたい100年ぶりね。変わらず、元気でいるかしら」
近藤先輩はふう、と、物憂げにキセルをふかしていた。
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