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【7月28日】蚊に喰われた
「ふえ〜。蚊に喰われた」
早苗が腕を指先で掻き毟っていた。
「やめなって。掻くと痒くなるよ」
「わたしの貴重な血液がぁ〜。虫如きにぃ〜」
「そっち?」
しかし最近は気温も上がったので確かに虫刺されが増えた。たまに蚊が飛んでいるのを目にすると、なんとも忌まわしい気持ちになる。
「吸ってもいいけど、せめて痒さは軽減してほしいよね」
「吸うのも許せないよ! 人間がやったら売血は犯罪なのに、蚊は許されてるなんて不条理だよぉ。わたしの綺麗で美しい血液が、また今日も失われてしまった」
「すごい持ち上げるじゃん」
「血液はわたしの数少ないチャームポイントなの」
「はあ?」
「サラサラで真っ赤な血がわたしのいいところなの!」
そうなんだ。
「血の、魅力とは?」
「んー、やっぱり真っ赤なところかな。他の絵具じゃあんまり出せない、安っぽくない赤っていうか、あ、でも、それは血液がいろんな物質が混じり合って作られているからなんだけど、絵具とかペイントで血を再現しようとしても、どうしても安っぽくなっちゃう、彩度? 鮮度? そういうのが高すぎるんだよね。あと、血液は外に出た後にだんだん色が変わっていくじゃん? 乾いたりして黒ずんでいったりとかさ、そういう諸行無常さっていうか、それも魅力のひとつかな〜、あ、あとね、」
「や、もういい、もういい」
「そういうところが魅力だし〜、それが生まれた時からずっとわたしの体の中を巡ってるって考えると、もう……あの、興奮してきちゃうフヘヘヘヘヘヘヘ」
早苗は気持ちの悪い笑い方で肩を震わせていた。わたしはその話に正直ドン引きしていた。こんな子だったかなあ。もっと大人しくて繊細な子だと思ってたけど。
「だからね! わたしは蚊が許せないの。そんな貴重で大切なものを勝手に吸い取って行っておとがめのひとつもないなんて!」
「ほら。蚊も生きていくために必死なんだから。蚊には蚊の都合があるんだよ」
「そうかもしれないけど〜」
「それに、早苗の血で育った蚊がいっぱいいるわけじゃん? じゃあ、早苗はその蚊たちにとっては、恵みを与える女神さまみたいなものかもしれないよ」
「おお、なるほど。神の血としてワインを飲むようなものってこと?」
「ん、まあ、そうかも」
「なるほどぉ〜。なんだ、蚊も意外と敬虔な奴らじゃないか」
なんて変わり身の早さ。単純すぎやしないだろうか。
「ね、じゃあさ、今度血の見せ合いっこしようよ」
「やだよ。気持ち悪い。魔女の宴みたいじゃん」
「魔女の宴ってそんなことするの?」
「や……あの、それは知らないけども」
「ん?」
「ほら!」
ばちっと湿った肌を叩く音が響いた。
わたしが自分の腕を叩いたからだ。
そこには蚊が止まっていて、潰れて、赤いしみを作っていた。
「あー。潰れちゃった」
なぜか早苗が痛々しい表情をした。
「わたし、得意なの。蚊とかハエを叩くの。刺される前に潰せちゃうの」
「でも血がいっぱいだよ?」
「あー、別の誰かの血じゃないの? さっきまで誰かの血を吸ってたのかも、ばっちいね、ちょっと洗ってくるね」
わたしはトイレに駆け込んで、慌ててその血を…………
「これが……」
たぶん、早苗の血だ。
さっきまで早苗の血を吸っていた蚊が、それを抱えたままでわたしのところにやってきたのだ。それをわたしが潰した。
たしかに赤々としていて、ほどよく鮮やかで、鉄っぽいいい香りがする。
「だ、ダメよ……ダメだよ」
虫も一緒に潰れているので、ばっちくて、舐めることはできなかった。
「おかえりー」
早苗は呑気に言った。
「ほら。綺麗になったよ」
「見せなくてもいいよ〜」
わたしは早苗の、眼球とか、薄い手首の内側とかを見て、思わずどきっとしてしまい目を少しだけ逸らした。
あの赤い血が、この肌の下に流れているかと思うと……
確かにすこしどきどきしてしまう。
この日、わたしの性癖が少しだけねじれた。
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