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【1月24日】髪の長い先輩
風間先輩から卒業前に部室に呼び出された。たったふたりしかいなかった美術部、その最上級性にして部長であり、唯一の先輩であり部員仲間でもあった先輩からメッセージが残されていた。
扉を開けると先輩はいつもの席に座って、だらっと膝を崩していた。
「呼び出してごめんなさい」
「なんですか、話って」
「うん、ちょっとね、後輩に頼みたいことがあったの」
先輩は長い髪をおもむろに手でかきあげ、まとめて肩の後ろにやった。
「髪、切ってくれない?」
「え?」
「実はね、後輩には喋ってなかったけど、私は入学してからずっととあることにチャレンジしていたの――三年間ぜったい髪を切らないって」
確かに先輩が髪を切っているのを見たことがない。
最初に会った時から「すごい髪の長い人だなあ」と思っていたけれど、先輩のクールな雰囲気によく似合っていたし、会うたび会うたび変わっていく髪形を見るのも好きだった。
あるときはポニーテール。
あるときはサイドテール。
あるときは三つ編み。
あるときはシニョン……などなど。私が結んであげたり、やり方を教えてあげた髪形も少なくない。そして、その度に私は先輩の髪形をモデル代わりにデッサンを施した。「風間先輩」とシリーズ化されたクロッキー帳には、いろいろな髪形をした先輩の姿が残されている。私はデッサンの練習だと思って無心でひたすらこなしていたけれど、先輩を見ている時間はそれなりに幸せだった。
「切っちゃうんですか?」
「だって鬱陶しいし」
「えっ」
じゃあなんで今まで伸ばしていたんですか、と口に出して聞く前に先輩は答えた。
「なにか、三年間を通してずっと続けられることがないか考えていたんだけどね――あ、中学生の春休みの頃の話」
「はあ」
「日記も飽きるだろうし、筋トレとかも続かないだろうし、じゃあ髪を伸ばしてみようかと思って。ついでに後輩のデッサンの練習にもなるし、別に悪い提案じゃなかったと思うのよ。でも高校を卒業するにあたって……ここまで積み重ねてきたこと、高校時代の自分を、思い出と一緒に断髪しようかと」
「よく分かんないんですけど」
「ハサミは用意しているから。それから新聞紙も。さあ後輩なら先輩の最後のワガママを聞いてください」
というわけで私は新聞紙を部室の狭い床に敷き、その上に椅子を置いた。風間先輩がそこにすとんと座ると、何かの展示に使うのだろう、白い大きな布があったので、それを先輩の首の周りに巻きつけた。
「苦しくないですか?」
「だいじょうぶ」
「どのくらい切ります?」
「バッサリやっちゃっていいよ」
だからどの程度バッサリやればいいのかということを聞きたいのに、先輩はこういう所がいつもいい加減だ。右手に握ったハサミがおろおろとあちこち行き来する。
そういえば先輩のいい加減な所はずっと直らなかった。私は中学のころから美術部だったから、高校でも当然美術部に入部しようと思っていた。だけど入学してみたら部員はこの人だけ、しかもまともに活動している痕跡もない。風間先輩は絵画よりも写真の方が好みだと言って、課外活動と称してはあちこちにカメラを携えて出かけて、何百枚も写真を撮って帰ってきた。同じような写真を大量に現像して何をするのかと思ったら、アクリルガッシュをその上にぶちまけてべったりと塗りつぶしてしまったり、シュレッダーにかけて切り刻んで適当に並べ直したりして作品だと言い張ってコンクールに提出していた。
なんでもとある現代美術家の作品をオマージュした作風にチャレンジしているらしかったが、当然のように箸にも棒にもかからずいた。
「先輩って意外と、肩幅ありますよね」
「あ、分かる? 結構ね、便利なんだよ、ブラの紐とかずり落ちないし」
私は先輩の三年分の髪を左手でがっとすくいあげた。
三年分の髪。そう思うと途端に重みが出てきた。うかつにハサミを入れるのがはばかられる。どうせ切ってしまうのに。
椅子に座ると、風間先輩の髪はちょうど床に毛先が触れるくらいの長さになる。校則とか風紀とかでいろいろ言われなかったのだろうか。いい加減な先輩だから、注意されてもなあなあでへらへらと受け流しているのかもしれない。
「はやくはやくぅ」
「ええ、じゃあ、切りますよ? いいんですか? ほんとうにきりますからね?」
「いいから早くやれよ」
じょき。
大胆に入れすぎたかもしれない。どさっと切り落とされた髪の毛が新聞紙の上に音を立てて崩れた。言いようのない後悔が襲い掛かってきた、いきなりたくさん切りすぎたかもしれないとか、これからどういう風に切っていこうかとか。誰かの髪を切った事なんてないから分からない、どうしても美容院に行くのが面倒くさい時にうっとうしい前髪を自分で切ったりしたくらいだから。
「い、いいのかな? いきなり切りすぎたかな?」
「いいからどんどんやっちゃって、後輩」
先輩の言葉に操られるように、私はつぎつぎに思い切ってハサミを入れていった。ヤケクソのようなトランス状態だ。
あっというまに長かった髪は、肩甲骨辺りまで短くなっていた。足元には、先輩の三年間が呪いのようなおぞましさで積み重なっていた。
「前髪、どうします?」
「どーでもいいよ」
「いや、前髪は……せめて残すかどうかだけでも」
「うーん、じゃあ……あ、でもいいや。いい感じで」
「いい感じですね」
私は先輩の前に回り、前髪を顔の前に流して長さを適当に見た。眉毛の辺りでいったん束ねて、真っ直ぐに切る。後は縦にハサミを入れて、適当に形を整えていく。
「ちょっと目、つぶっててください。目に入るとあれなんで」
「はいよ」
先輩は長い睫毛のついたまぶたをぴったり閉じた。私は前髪を整えながら、先輩のつるんとした顔を見ていた。唇はうすく、肌は白い。すっと筋の通った鼻が、全体的なシルエットを支えているようだった。
きれいな顔だ。
横顔は何度もデッサンしたけれど、正面からこんなにまじまじと見つめたのは初めてだった。不思議と心臓がどきどきしてくる。
前髪に集中しなくちゃ。
「じゃあ、前髪はこんな感じで……」
再び後ろに回り、後ろ髪を切り始めた。肩甲骨まで伸びていた髪を少しずつ短くしていく。肩まで、うなじまで……
「どうです?」
「うーん……もうちょっと軽い方がいいかな」
「ベリーショートみたいになっちゃいますけど?」
「どうでもいいよ、快不快で言ったら快というか、コンフォタブルなほうがいい」
なぜそこで英語を急に出してくるのか。
うなじを越えて、ブレザーの襟足にかかるか、かからないかくらいまで短く髪を切った。その後は適当に後ろをそろえて、ぱっつんにならないように毛先を整える。
「耳は出します?」
「あ、だして」
先輩はそこはこだわった。
「髪があるとさ、ヘッドホンとか使いにくくて」
「とりあえずこんな感じで……いま鏡出しますね」
「あ、待って。デッサンしてよ」
先輩は私にムチャクチャなことを言った。
「デッサン?」
「そ。いつもやってくれてたでしょ。鏡で見るんじゃなくて、後輩のデッサンで自分がどうなっているのかみたいな」
「今からですか? 時間かかりますよ」
「キミ、デッサン早いじゃん。だいじょうぶ、待つよ」
というわけで私は慌ててクロッキー帳を取り出し、鉛筆で髪の短い先輩をデッサンすることになった。
何のことはない、いつもやっている通りのことだ。先輩は相変らず、どこを見ているのか分からないような表情でじっとそこに座っている。
ところが、すぐに異変は現れた。
「うーん」
どうもバランスがうまく行かない。左右のバランスというか、全体が狂っている気がする。
当然だ、今まで長い髪がある状態がデフォルトだった先輩が、突然それを失くしたのだ。今まで服を着ていた人がいきなり裸になったような感じだ。
「どうした後輩?」
「ちょっと、バランスが……なんかうまく行かないなあ……」
「ちょっと見せて」
と、先輩は私の手からクロッキー帳を取り上げた。大方の輪郭はとれて、あとは細かいところを描き込んでいくだけ、というところだったが……
「へぇー。いまの私、こんな風になってるんだ」
「あの、まだ途中で」
「んにゃ。いいよこれで」
と、先輩はクロッキー帳をぱたんと閉じて、身体に巻き付けていた白い布をはぎとった。そして部室の片隅にあるロッカーからちりとりとホウキをとってくると、自分の切られた髪の毛をいそいそと片付け始めた。
「先輩がよくても私は良くないんです」
「良いって言ってるじゃん。よく描けてるよ、満足満足」
「先輩はいつもいい加減すぎるんです」
私は自分でも苛立っていることに驚いた。語気が思ったより強くなっていることに戸惑った。だけど、言葉が止められない。
「だいたい、先輩はいつも作品もいい加減で、仕上げもしないでコンクールに出しちゃうし、デッサンとかも適当で向上心がないし。時間にもルーズで、ぜんぜん待ち合わせとかに来ないし、服装も髪形もいつも適当で、ぼっさぼさで……私はもっと丁寧に、しっかり美術部の活動がしたかったのに、風間先輩が先輩でいいと思ったことなんてありません、もっと勉強熱心な美術部で活動したかった」
「しょうがないじゃん」
たったひとことで先輩は片付けてしまった。
ちりとりにたまった髪の毛を、小さなポリ袋にざーっと流し込んできゅっと口を閉じた。
「私しかいなかったんだもん」
「それは先輩がいい加減な人だから……」
「じゃあどうして後輩はさ、私の後輩になったの?」
先輩は床に敷かれた新聞紙を畳み始める。
「私はさ、自分でやりたいことをやるために美術部に入ったんだ。普通の人間がやると変人扱いされるようなことでも、『美術部の私がつくった作品です』っていえば、何か、免罪符? みたいな、そんな感じになるから。だけど、いつの間にか私は美術部でもひとりぼっちになっちゃって、それはそれで気楽だったけど、後輩が出来た時はまあ、嬉しかったんだよ、それなりにさ」
「じゃあ、先輩は美術が好きなわけじゃなくて?」
「うん、髪を切ったのもさ、自分の髪の毛が欲しくなったからなんだ。これを使ってなんか、面白いものをまた作ろうと思って。それはまあ、美術部の活動かどうかと言われると微妙だけど」
そして先輩はあらかたの片づけを終えると、私に向かって一言言った。
「後輩はさ、真面目で勉強熱心だから、そういうところ、すごく尊敬する。私は出来ないから。でも、たまには適当に肩の力抜いてさ、ぼんやりやってみるのもいいと思うよ。さっきのクロッキーみたいに」
すると先輩はいそいそとカーディガンを羽織って、かばんに自分の髪の毛の詰まった袋を入れて私に歩み寄ってきた。
「ありがと。髪の毛。すっきりした」
「先輩、私は……」
「次に後輩が入ってきたら、ちゃんと教えてあげるんだよ」
先輩はさよならも言わず、なにも言い残すことなく部室から去っていった。私はあっけにとられたように、ひとり取り残された。
「もっと何か、気の利いた一言を言えばよかった」
先輩の顔はいくらでも思い出せる。
何度も何度もクロッキー帳に描き込んできた。いつもそこに佇む胸像のように何十回と見返してきた。だけど、髪の短い先輩のことは思い出すことが出来ない。
クロッキー帳の最後のページ、やりかけで投げ出された、先輩の顔。目も鼻も口も、輪郭が何重にもぼやけていて、ディテールを掴むことができない。
それから先輩は私に何か一言いうでもなく、特別なメッセージや作品を残すわけでもなく卒業していった。
今でも私は時々、部室でひとりでいるときに先輩の顔を思い出す。だけど、いい加減な先輩のことを、私もいい加減にしか思い出せないので、おかしくなって笑ってしまう。
「キスくらい、しておけばよかった」
そうすれば先輩は私に何か、何でも、残してくれたのだろうか、なんて……
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