【1月6日】サマータイム

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【1月6日】サマータイム

 仕事始め、新年最初の月曜日の夜からさっそく新年会で呑み明かすなんて、本当に不毛で意味のない行事だとうんざりしていた。新人は上司や先輩にお酌をしないといけないし、気も違う。女性社員は女性で固まって、実家の愚痴、仕事の愚痴、姑やら嫁やら旦那やらの愚痴。それが終わったら今度は同僚の愚痴、上司の愚痴、最近の俳優やミュージシャンの話をすこしした後の愚痴、愚痴、愚痴…… 「桔梗ちゃん、そんなにカリカリしないの」  長い長い一次会が解散した後、イライラが最高潮に達していた私に、上司の睦月さんが声をかけた。 「お疲れさま、ぜんぜん楽しめてないでしょ? どう、この後ふたりで呑み直さない? この辺りでいいお店、知ってるんだけどな」 「あ、ありがとうございます……」  睦月さんも顔がつるんとしていて、ぜんぜん呑んでいないようだった。私たちは適当に二次会の誘いを断ると、駅とは反対方向に歩き出した。 「絡まれてたねえ」 「はい……まあ、でも、まだ新人なので、しょうがないですよ」 「あんまり無理して付き合うことないのよ? 気分悪いですーって外出てればよかったのに」 「そうすると、盛り下げちゃって悪目立ちするじゃないですか」 「まあ、それもそうか」  睦月さんはにっこりと笑った。 「まあ、でも、ふたりきりだったら気にしなくてもいいからね」 「はぁ……」      ◯ 「それは、むっちゃんが悪いよ!」 「そうかなぁ?」 「相手がかわいそう。むっちゃんがちゃんと断らないと、相手の男もずっと勘違いしたままだよ。僕だったらすぱっと断るけどなあ」 「でも、なんか悪いことしてる気がしちゃって」 「だって、言い寄られて迷惑だったんでしょ?」 「うん、」 「ならちゃんとズバッと言わないと、優柔不断だと相手に誤解されちゃうよ」  むっちゃん……睦月さんは、手にした青いカクテルを口に含んだ。 「うん、やっぱり桔梗に相談してよかった」 「むっちゃんはいつもそうなんだから。自分が男にモテてるの自覚しないと」 「うーん……そんなことないと思うんだけどな」 「だって、4月からだけで何人に言い寄られてるの?」 「10人くらい……?」  思わずため息が漏れる。 「いつか悪い男に引っかかりそうで、気が気じゃないよ」 「もう、心配しすぎだよ」 「またそんな……」 「だいじょうぶ。わたしはずっと、桔梗ひとすじだよ」  かあっと顔が熱くなって、グラスに注がれたお冷をぐいっと呑み干したら、少し落ち着いてきた気がした。  むっちゃんに連れてこられた、線路沿いの裏通りにひっそりと佇むバー『サマータイム』。先はカウンターが5つ、奥に机が3つ。カウンターの斜向かいには、ドラムセットが鎮座する小さなステージが設えられている。どこからともなく、とても小さな、でも低音のよく響く音で、ジャズの調べが流れている。 「いいお店だね」 「でしょう? たまたま見つけて以来、行きつけなの。ひとりで呑みたい時なんか、よく来るんだ。いつか桔梗も連れてきてあげようと思ってたから、ちょうどよかった」 「僕、こういうところ、初めてだな」  バーというのは、ちょっと敷居が高くて来たことがない。お酒は好きだけど、もっぱら家で呑むことがほとんどだ。  色とりどりの間接照明でライトアップされた、ちょっと薄暗い店内。ボトルの並ぶカウンター。マスターらしき初老の男性から手渡された黒い名刺。  どれもこれもオシャレで、身が竦む思いだ。でも、隣にむっちゃんがいると思うと、彼女にならってリラックスすることができた。 「桔梗はどういうお酒が好きなの?」 「特に……でもワインとかは、あんまり。割と強いのでも平気だよ」  すると、むっちゃんがマスターに目配せをした。初老のマスターはにっこりと微笑むと、ゆったりとした手際でグラスを用意し、お酒を注ぎ出した。数分後、僕の前に淡い紫色のカクテルが現れた。 「『ブルー・ムーン』でございます」  マスターが渋い声で紹介した。 「桔梗色のカクテル……なんちゃって。わたしの奢り」  むっちゃんが余裕そうに笑う。  僕は気恥ずかしくなりながら口に含んでみた。 「あ、おいしい……」 「でしょう?」 「むっちゃんはすごい。物知りだし、優しいし……僕はぜんぜん、ダメだよ」  お酒のせいだろうか。  どんどん、言葉が溢れてくる。今日のイライラ、普段のストレス、不満…… 「すぐ、ちょっとしたことでイライラしちゃうし、人付き合いもぜんぜん、うまくできないし……この間も上長と言い合いしちゃったし……」 「あ、聞いた、聞いた。あれ、桔梗だったのね」 「その度に反省してるつもりなのに、結局、また繰り返しちゃって……」 「そういうもんよ。桔梗が変わろうとしても、周りは変わってくれないんだもの。今の形のままで安定しちゃってるんだから、ね」 「じゃあ、僕が変わらないとダメなのに、ぜんぜんできないんだ。なんか、情けなくてさ……アハハ、ごめんね。今度は僕がむっちゃんに愚痴っちゃってるね」 「どんとこいよ。溜め込んでも、いいことないもの。ね、ところでそれ、ひと口ちょうだい」  むっちゃんは『ブルー・ムーン』の入ったグラスを右手で摘み上げると、ひと口ふくんだ。 「うん……おいしい」 「ありがとう、むっちゃん。誘ってくれて」 「別にいいのよ」  にわかにお店が騒がしくなった気がした。だけど、すぐにそれは逆だと気がついた。店内のBGMが消え、ステージには数人の男女が上がっていた。その中には、さっきまでカウンターにいたはずの初老のマスターの姿もあった。彼はベースを肩からかけ、にっこりと僕らにアイコンタクトした。 「お聴きください」  中央に立った女性がささやくように告げた。肩を出した大胆なドレス姿の、若いひとだった。彼女がヴォーカルということか。  マスターのベースの音から始まった曲に、うっとりと耳を傾ける。BGMとは全然違う、身体を直にゆさぶる響きが、アルコールの回った身体に心地よく染み渡っていった。  僕とむっちゃんは、どちらともなくカウンターテーブルの上で手を重ねて、じっと耳を傾けていた。 「今日はありがとう。つきあわせちゃって」 「ううん、僕の方こそ。ありがとう」  マスターたちの演奏。  僕たちは、彼らの目を盗むようにして、こっそりと、短いキスをした。唇が触れる瞬間、むっちゃんの指先が少し強張るのを感じた。 「月の味がする」 「……それ、お酒の味でしょ」 「そうかも。あー、私も思ったより酔ってるわ」  むっちゃんが、僕の頬にささやいた言葉に呼応するように、演奏が終わった。やにわにむっちゃんはマスターに向かって手をあげると、なにか曲のタイトルを一言告げた。  ステージ上のバンドのメンバーはくすくす笑いながらも、あっという間に呼吸を合わせ、静かに演奏をはじめた。 『Fly me to the moon』。 「改めて、愛の告白がわりに」 「……キザだなあ」  でも、カッコよくてサマになるから、好き。       ◯  次の日。 「おはようございます」 「あ、おはよう。桔梗ちゃん」 「おはようございます、睦月さん」 「ね、このあと時間いいかしら? 次の会議の資料、相談したいことがあって」 「ええ、いいですよ、もちろん。実は私も、ちょっと聞きたいことがあって……」
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