【1月8日】『記憶』

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【1月8日】『記憶』

「ああー、ついてない……」  よりによって今日に限って、鞄の中の折り畳み傘が壊れているなんて。ちょっとくらいなら濡れてもダッシュで駅まで行こうと思うけれど、今日の土砂降りを見るとそうもいかなそうだ。  というわけで私は学校の玄関で靴を履いたままの立ち往生を演じていた。マフラーを巻いた口元から、白い息が漏れる。 「さむっ、」  いったん教室に戻ろうかなと思っていると、廊下からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。思わず下駄箱の陰に身を隠すと、その音の主が現れた。 「チャンス! チャンス! チャンス!」  物凄い大きな独り言だ。 「こんなチャンス滅多にないよ! 急げ、急げ〜」  やがてその姿が見えた。たしか……3年の雪村先輩だ。美術部の元部長で、物凄く長い髪と低い背で校内ではわりと目立つ存在だった。何かのコンクールで受賞したときに作品が校内に掲示されたので、名前くらいは知っていた。  雪村先輩は巨大な板のようなものを両手いっぱいに抱えていた。背が低いので、顔が辛うじて見えるくらいの大きさだった。ローファーのかかとを潰して、よろめきながら、傘もささずに土砂降りの外へと駆け出して行った。 「ちょっとちょっと!」  玄関を出てすぐの所で、すぐ先輩はずぶ濡れになった。周囲の傘をさした人たちがざわざわと離れていく中で、先輩は踊っていた。  手にした真っ白な何かの板。その天面を真っ直ぐ、まるで雨粒を受け止めさせるようにして持ち上げていた。そのまま傾けたり、くるくる回したりしながら、あちこち駆け回る。時々、かかとを潰したローファーで蹴っ躓いて、ばっしゃーんと派手な水しぶきを上げながらすっ転んだりしていたが、それでもまた立ち上がって、同じことを繰り返していた。 「アッハハハハ! アッハッハッハ!」  それからしばらく、先輩は雨の中をはしゃぎ回っていた。それがあんまり楽しそうで、幸せそうなので、私は下駄箱の陰からずっとその様子を見ていた。  やがて先輩はびしょ濡れになりながら、玄関へと入ってきた。手に抱えたあの大きな白い板も一緒だ。 「へっくしょん!」  髪という髪から水が滴り、ブレザーの下のシャツが肌にはりついている。唇は青く、指先や歯がぶるぶると震えていた。 「あの……」 「はい、うわぁ!?」 「あの、ごめんなさい!」  あんまり驚くので私の方が謝ってしまった。  先輩はえうえうと模糊とした言葉を呟きながら、しどろもどろしている。 「な、な、なな、なんですか」 「いえ、その、タオルとか……使いますか?」 「い、いえ、いえ、あの、あの、別にあの、あたし、あの、別にその、あのあの……は、はっくしゅん!」 「と、とりあえず、教室かどこかに……行きましょう」 「いえ、あの、あの、お気になさらず! ほんと、大丈夫ですから、森川さん!」 「でも……え? 私の名前」 「あっ、あの……えと、その……ひゃあ!」  まだ爪先に引っ掛けていたローファーにつまずいて先輩はすっ転んだ。その拍子に、手にしていた巨大な白い板が先輩の手を離れ、その場に落っこちた。  よく見るとそれは巨大なカンバスに、水彩画の画用紙を貼り付けたもののようだった。大体1メートル四方くらい。そこに描かれていた絵は、さっきの雨でひどく滲んでしまっている。だけど、誰か人間を描いたものであることは分かった。 「これは……?」 「あ、う、あうあう……」  先輩が顔を真っ赤にして、両手で顔を押さえていた。 「し、死ぬ、死ぬ! もう死にます!」 「いやちょっと!」 「も、森川さんに見られた、見られた……もう生きていけない……うう」  ぱっさりと軽い音をたてて先輩はその場に倒れてしまった。 「え、ちょっと……え? え?」       ◯ 「ん……」 「あ、気付きました?」  とりあえず私は、気を失った先輩を美術部の部室に運んだ。部室は誰もいなかったのでとりあえず勝手にストーブをつけ、そのそばに椅子を置き先輩を座らせた。濡れたブレザーや靴下は脱がしてストーブにあてておき、私のカーディガンを羽織らせた。  あの巨大なカンバスは、とりあえず日陰の壁に立てかけて、乾かしておくことにした。 「びっくりしました。いきなり気を失うから」 「はっ! あの、あの……うわわ!?」  先輩は目を覚ますなり暴れまわって、椅子から転げ落ちた。 「先輩!」 「やめて! もう殺して!」 「あの、だいじょうぶですから! 私なんにもしませんから!」 「でも、でも、部室、ここ……! みらっ、みられ……!」 「ああ……まあ、はい」 「あわわわわ……も、もう死ぬ……後で死ぬ……」  先輩は倒れた椅子の隣で膝を抱えて縮んでしまった。まあ……たしかに先輩にとっては、私にだけは見られたくないものなのかもしれない、この部室は……  噂は聞いたことがある。  この学校の美術部は半ば、幽霊部員ならぬ幽霊クラブと化していて、表立って活動しているわけでも無いので、部室はほぼ雪村先輩の私用のアトリエと化していると。  実際その通りだった。  美術部の部室。そこは床のあちこちに使い切った絵具が散乱し、カンバスが積み上げられ、海外の美術書が乱雑に転がっている、まるで漫画の中のような様相を呈していた。非常に汚い。散らかっているのに、その散らかっているものがどれもこれも芸術的なものばかりなので、不快感を煽られることはない。  だけど何より驚いたのは、大量に並べられた絵だった。およそ数十枚。大小、分け隔てなく描かれた絵は、どれもこれも、ひとりの人物を描いたものだった。 「どうして私のことを……」 「ど、どうせ変態だと思われてる……気持ち悪いって思われてる……!」 「いや、思ってな……いですけど」 「間! その間が気持ち悪いって言ってるの!」 「わかった! ちょっとは思ってますけど、それよりなぜ私をモデルにしたんですか? しかも、こんなにたくさん……」  雪村先輩は涙目になりながら、ゆっくりぽつぽつ語りだした。 「た、たまたま放課後の教室で、あなたのことを見かけたの。5月……ひとりでぼんやり教室の窓から、夕焼け空を見てたとき……」 「そんなこともあったような」 「と、当時、あたしはスランプで……人物画がぜんぜん、描けなくて。でも、森川さんのことを見たら……」  その時、  先輩の顔は綻んだままきりっと鋭く光を帯び、瞳が輝いた。 「か、描かなくちゃって。あなたのことをなんとしても……だからこの1年間ずっと、必死であなたのことを描き続けたの! あなたの姿があんまり、綺麗だったから、素敵だったから」 「は、はぁ……」 「う、や、やっぱり引いてる……引かれてる……!」 「否定はしませんけど」  私は立てかけておいた巨大なカンバスを先輩に見せた。雨粒に叩かれ、滲んでしまった水彩画。だいぶ乾いてきたが、画用紙に水彩絵の具で描いたこれは、少し触っただけでぼろぼろ崩れてしまいそうなほどだ。 「じゃあ、これも?」 「そ、そう。卒コン……卒業記念コンクールに提出しようと思って描いたの。でも、上手くいかなくて……」 「雨にさらそうと?」 「そ、そう。記憶の中のあなたを描くには、そうした方が一番いいと思ったから。でも、提出前に雨の予報はなかったから、今日、たまたま降ってきて、無我夢中で……は、はっくしょ!」  先輩は大きなくしゃみをしながら、ぶるぶるっと体を震わせた。  私は、先輩の渾身の力作であるという、その巨大な絵画をもう一度眺めた。言われてみれば……たしかに、女子高生の絵に見えなくもない。椅子に座って、外を眺めているように、見えなくもない。だけど、これが私なのかどうかは、私と、雪村先輩にしか分からないだろう。 「あの、雪村先輩」 「ヒィっ! ごめんなさい、通報しないで……ごめんなさい、ごめんなさい、な、なんでもしますから」 「通報しませんよ!」  私は震える先輩の、すっかり冷え切った指先を握った。一瞬こわばったが、すぐに力が抜けていくのを感じて、もっとぎゅっと握った。 「モデル代をください」 「身体なら! 身体ならいくらでも」 「身体より、私、この絵が欲しいです」  きょとん。音がした気がした。 「絵のモデルになったことなんてないから。卒コン? に提出するなら、それでもいいです。でも、その後でこの絵を譲ってくれませんか?」 「い、いいけど……いいです!」 「ありがとうございます。それと、よかったら……」 「え、まだ、まだなにか?」 「また、私のことを絵に描いたら、教えてほしいです。なんなら、モデルもしますから」 「え、それは嫌」  意外と先輩はきっぱりと断った。 「だってあたしが好きなのは、ありのままのあなたなの。椅子に座ったり、ポージングしてるあなたなんて、いや」 「どうして、そんなに、私のことを……」 「わ、わかんない……でも、森川さんを一目見た時から、ずっとそう。心臓がどきどきして、視界がきらきらするの。あなたのことを思い返すたびに、違った表情のあなたが思い浮かぶ。みんなきれい。こんなふうに感じるの、はじめてで……どうしてか……」  なんだろう。  私は意味もなく照れ臭くなってきた。ふたりきりの部室。まるで、愛の告白でもされているみたいで…… 「ありがとうございます……」 「や、ご、ごめんなさい、こんなこと! き、気持ち悪いよね……」 「そ、そんなことないです! 嬉しいです、とっても……」 「え、えへへ、へへへへへ。そう?」 「ええ、まあ、あはは」  私はスマホを取り出して、先輩に差し出した。 「ライン交換しましょ、先輩」 「え、あ、うん……で、でもあたし、もうすぐ卒業するし……」 「じゃあ、また作品を発表したときに、連絡してください」 「う、うん……ありがとう」  先輩は不器用に笑った。  さっきの雨のなかで、踊りながら、はしゃぎながら笑っていたあの顔とは全く違っていた。ぎこちない、明らかに慣れていない笑顔だった。  先輩は本当に不器用なんだと思った。いつか、また、先輩の本気の笑顔が見たいと思った。 「ありがとう、森川さん。さようなら」  最後に部室を去るとき、先輩の顔はすでに変わっていた。眼光鋭くカンバスに向かう、芸術家の顔だった。  すごく、カッコいいと思った。きれいだと思った。でも、邪魔をしないように私はその場を去った。  いつの間にか雨は止んでいた。太陽が顔を出して、雨に濡れた地面をきらきらさせた。  数ヶ月後、雪村先輩から荷物が届いた。先輩は既に卒業式を終え、東京の大学へと引っ越しを済ませてしまったらしい。やけに薄い、板のような荷物を開封すると……  それはジグソーパズルだった。  大きさは50センチ四方くらい。あの、雨ざらしの絵だった。 『すぐバラバラにしてください』  先輩の文字で、水性サインペンの手紙が同封されていたけれど、私はずっとその絵を眺めていたかったので、結局一度もバラバラにせずにとっておいた。  この絵を見るたびに、雨のなかで笑う雪村先輩の顔を思い出した。  ああ先輩は、私のどこに惹かれたのか分からないけれど、きっとこういう気持ちだったのかな、と思った。
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