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【1月1日】初日の出
高校生のころ、何故かおじいちゃんに買ってもらったカメラを、大学生になってはじめて押入れから引っ張り出した。せっかくひとり暮らしを始めたので、バイト代を貯金して年末年始は帰省せずに小旅行に出かけた。ガイドブックの隅の隅にちっちゃく掲載されているような、ぜんぜん名前の知られていない海沿いの安い旅館に前泊して、誰もいない場所で初日の出を写真に撮りたかった。
大晦日の夜、なかなかいい感じの熱い温泉に浸かって、美味しいご飯を食べたあと、テレビをみてだらだらと過ごした。そして朝の三時にアラーム通りに起きると、浴衣を脱いでしっかりコートとマフラーを身に着け、近くの海辺へと赴いた。
真っ暗で誰もいない砂浜。その埠頭の先。前日に目を付けていたそのスポットには、もう先客がいた。その人は小さなローチェアに腰かけ、三脚に括りつけたカメラを覗き込みながら、
「どうも」
と頭を下げた。ものすごく髪の長い、二十代半ばくらいの女の人だった。登山ウェアみたいなオレンジ色のジャケットを着て、ずるずるとカップ麺をすすっていた。
「あなたも初日の出を見に来たの?」
「あ、はい……」
「物好きなの。もっと有名スポットに行けばいいのに。あ、椅子使う? もう一脚あるから」
「どうも……失礼します」
というわけで、私はそのひとの隣でローチェアに腰かけ、三脚をスタンバイした。マニュアルを見ながらでも十分、十五分もあればセッティングは完了して、朝日が昇るまでひたすら待たなければならなかった。
「カップ麺食べる? もう一つあるから」
「いえ……」
「でも、何か食べておかないと。そうだ、板チョコもあるよ、ホワイト? それともストロベリーがいい?」
「え、あの……普通のは?」
「紅白でおめでたい感じがしていいでしょ。じゃあ、半分ずつ食べようよ」
もう一人の女の人とチョコレートを食べながら、私はだらだらとおしゃべりをして時を過ごした。
「どうしてここを選んだの? 一年に一度の初日の出」
その女の人は特に名乗るわけでもなく、チョコレートをパキパキとほおばりながらぼんやりと私に尋ねた。
「別にこだわりがあるわけじゃなくて……安くて、一泊で旅行できる場所がこの辺りで。で、昨日の昼にうろうろして、ここなら撮りやすそうだなあと思ったから」
「そっか。昨日の昼ってことは、もう新年なんだ。あけましておめでとう」
「あ、おめでとうございます……」
「まあ、きょうが過ぎたら、もう会うこともないだろうけど」
はあ、と返事ついでの溜息が白く消えた。気が付くと、海風もあってだいぶ寒く、指先が震えている。
「そ、そういえば、今何時ですか? 日の出は……」
「やめなよ、そういうの、ナンセンスだよ。じっと待っているのも楽しみのひとつだよ」
「ごめんなさい……」
「手、冷たいの?」
すると、彼女は冷えた私の手をごく自然な手つきで取ると、両手で包み込むように握った。
「ほんとだ。冷たいね」
そのまま口元に手繰り寄せると、はーっとあたたかい息をかけた。
「あ、あの……」
「シャッター切るときに手元が狂ったら、大変だよ」
温かい息を浴びた手を、白い指で何度もさすられているうちに、だんだん手先どころか体まで熱くなってきた。目の前のひとは、とても熱心に、でも慣れた感じで私の手を温めてくれていた。
もうだいぶ大丈夫です、と私が言うと、
「よかったね」
と笑った。
そのまま再び無言。だけど、夜空がだんだん白んできた気がする。それとも、目がだんだん夜闇に慣れてきただけかもしれない。隣のひとは、たまにファインダーを覗きこんだり、三脚の位置を調整したりする以外は、ローチェアに深く腰掛けてほとんど身動きしない。
「昔よく、父にやってもらったの」
また、ひとり言みたいに彼女は語り始めた。
「よくこの辺りに船を出してくれてね。小さい頃は週末になると、いつも釣りに連れてきてくれたの。で、年末にも毎年連れてきてくれてね、船の上から初日の出を見てたんだ」
「へえ……」
「だけど、父がこの間亡くなってね。だから今年はここで見るの」
すると、だんだん空の向こうが白み始めてきた。
今度は見間違いではない。水面が徐々に煌めいてくるのが見える。
「そろそろですか……?」
「うん、そろそろ。シャッター構えておいた方がいいよ。どの初日の出を撮るか、見逃さないようにね」
「どの?」
「日が昇り始めてから、昇りきるまで、朝日から昼の太陽になるまで、いっぱいシャッターチャンスはあるから。ちなみに、私が一番好きなのはね――」
と、水平線を指さした。
私が目を向けた瞬間に、かっとまばゆい白い光が目を焼いた。彼女はうきうきと長い髪を揺らしながら、ファインダーを覗きこんだ。
「この初日の出が一番好き。海がきらきら光るこの初日の出が」
「じゃあ、私も撮ります」
ファインダーを覗きこみ、何度もシャッターを切った。
アングルもずれて、ピントも合っていないけれど、それでも何枚も撮った。太陽はどんどん大きく昇っていって、私たちは夢中でシャッターを切り続けた。
「来年は船舶免許を取って、船の上から写真を撮ろうと思うの」
もう朝の八時だ。私たちは道具を片付けて、砂浜で向かい合った。
彼女はものすごく綺麗な顔立ちをしていた。目が細くて、長い髪の良く似合う、色白の美人だった。
「私も、また一緒に来ていいですか」
「え? まあ、いいけど、海の上はここよりずっと寒いよ。それに揺れるからピントも合わせにくい」
「いっぱい練習します。手が冷えたら、また、温めてください」
「いいよ。約束ね」
海風がさっと吹くと、白い息が消えていく。
「そうだ、名前――」
「『日昇丸』」彼女は背を向けて歩き出した。「父の遺した船の名前。それが目印。また来年会いましょう、良いお年を」
「はい。良いお年を」
後日、印刷したへたくそな私の写真を眺めていると、季節外れの年賀状が届いた。
ものすごく綺麗な、初日の出が映っていた。ちょうど頭のてっぺんを出した辺り、太陽というよりも、海のほうが主役になっているかのような……そんな初日の出だった。
「どうやって住所を……!?」
はがきの表には、手書きの毛筆で、見知らぬ名前が記されていた。
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