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新生活
この春大学に入学した私は、実家を離れて県外のこの街へと引っ越してきた。一人暮らしに不安がなかったわけではないが、人生何事も経験だ。もう借りるアパートは決めてある。そこに行きがてら、今後4年間を過ごす街を探索することにした。こういうのは不動産屋さんに聞いた方が早い。早速、お世話になったところへ足を運んだ。
「こんにちはー。」
挨拶をすると、近くにいた人が対応してくれた。
「こんにちは、本日はどのようなご用件で。」
にこやかな挨拶を晴々しい気分で聞きながら、今日からここで紹介してもらったアパートで一人暮らしを始めることと、街の散策をしたいがおすすめの場所はあるか、ということを話した。
「そういうことでしたら、この辺りがおすすめですねぇ。慣れない一人暮らしですから、スーパーや薬局の場所を知っておくと便利でしょう。他にもこの辺りにはいろいろなお店が並んでいるので、一度行ってみてはいかがですか。」
おすすめの場所を聞き出した私は、早速そこへ行ってみることにした。
着いたので一通り回ってみた。どのお店も楽しく、新生活に彩りを添えてくれるだろう。少し、裏道に入ってみることにした。故郷の町では一本道が違えば見る景色も全然変わる。お洒落なお店の裏が田んぼということはざらにあるのだ。
少し歩くと小ぢんまりとした喫茶店のようなものが見えてきた。歩いて近寄りよく見ると、そこは古本屋だった。私は小さいときから本の虫で、よく図書館の開館から閉館まで時間を忘れて読書に耽っていた。
入客を知らせる小ぶりのベルが、チリンチリンと鳴る。奥から初老の男性が出てきた。
「いらっしゃいませ。」
おっとりした口調でそう行った彼は、レジの近くの木製の椅子へ座ってしまった。しまった、初日からあまり本にお金を費やす訳にはいかないのに。そう思っても後の祭りで、渋々一冊だけ買うことにした。
この古本屋は変わっていた。ジャンル分けされておらず、あいうえお順に並んでいた。目についた本から手にとっていく。普段は読まないような本もあった。
「湖畔の夏」
その本は本棚の右側から3冊目のところにあった。重厚感のある暗めの青い表紙に金色の文字。作者は、数々の本を読んできた私でも知らない人だった。長年手に取られ読まれてきたことが、丸くなってしまった表紙の角から分かる。一目惚れだった。手に吸い付く、という表現は本には合わないかも知れないけれど、離しがたくなってしまった。けれど、今日からは少ないお金を自分でやりくりしなければいけない。今後こんな風に買いたい欲に抗えず買っていたら、困ってしまう。でも、買いたい。今を逃せば二度と巡り会えない気がした。でもでも、お金が。思考が堂々巡りを始めること、早十数分。
その外見に見合ういい値段でお財布は間違いなく大打撃を受けたのだが、抗いがたい感情に押し流され思い切って買ってしまった。
一言で言うと、最高だった。
何の捻りもない感想だがこれに尽きる。だが、「湖畔の夏」と書いていながら、湖畔にいたわけでもないし夏でもなかった。時代は戦前。陸軍将校を夫にもつ婦人の目線で書かれていた。婦人の、戦争への不安と先行きの見えない苛立ち、夫を亡くす恐れと子どもたちを守らなければという使命感。良妻賢母であろうとするが感情の激流に翻弄される、婦人の葛藤が生々しく描写されていた。
大満足だった。読み終わったときは、言い様のない達成感に包まれた。早速、祖母へメールをすることにした。本のあらすじと写真を載せておいた。祖母は私と同じく本の虫で、小さいころ図書館に一緒に行った。母はあまり読書が好きではないらしい。
その本を読みたいので近々持ってきてほしい、という旨がメールされてきた。
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