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大学三年・夏
おいしいご飯と音楽と家族。
それだけあれば、生きていけると思っていた。
「くそっ!」
部屋に戻るなり、あたしはバイト用の鞄を床に叩きつけた。
なんなんだあのクソオヤジ。アイスコーヒーの蓋が曲がってた? だからどうだってんだ。はめ直す程度の手間がなんだってんだ。蓋が外れたらお前は死ぬのか。なら勝手に死んどけ。てめえなんざ、この世から消えても誰も困らねえ。
ひとしきり毒づいた後、あたしはベッドに体を投げ出した。
もう午後十時も過ぎた。寝たい。眠いときは寝るにかぎる。
クレンジングシートで軽く顔を拭い、横になったまま服を脱いで放り捨て、下着のままで布団に潜る。
(…………)
あー、だめだ。
眠れねえ。目を閉じて浮かんでくるのは、脂ぎったオヤジの得意げな怒鳴り声と、卑屈な「すみません」ばかりを留守電みたいに繰り返す店長の背中ばかりだ。
脳内で音楽を流そうとして、やめる。あたしの好きな曲たちを、こんな腐った音と混ぜたくはない。そいつは音楽に対する冒涜だ。
けど、うだうだと寝返りを打ってみても、耳障りな怒鳴り声はいっこうに出ていく気配がなかった。
下着の上にガウンだけ羽織って、あたしは部屋を出た。
ここ「シェアード桂の森」は学生向けのシェアハウスだ。五人いる住民は皆女子だから、皆、共用スペースでも人目を気にすることなくだらだらくつろいでいる。こんな格好で出歩くのも毎日のことだ。
共用のラウンジに出てみれば、見慣れた背中がひとつ、ソファに寝そべって大型テレビを見ていた。
「あれー?」
ゆるくウェーブがかかった肩までの茶髪を揺らしながら、そいつ――宮原瞳子が振り向いた。
「ミカちゃんどうしたのー。なんか怒ってるー?」
くりくりした大きな目で、瞳子はあたしの方を見つめる。この子はいつも、あたしのことを「ミカちゃん」と呼んでくる。どうにもすわりが悪くてムズムズする……本名の「瀬川美佳」で呼べとまでは言わないけど、せめて「ちゃん」は取ってくれないだろうか。あたしは大学三年で、瞳子は短大一年。あたしの方が一応年上なんだからさ。
「別に。ちょっと眠れないだけだ、瞳子が心配することじゃない」
「寝るのー? だったら、ちゃんとお顔洗った方がいいよー。生え際にファンデついてるー」
あわてて指でなぞってみれば、たしかに汗混じりの肌色の粉が付いてきた。瞳子は相変わらず、大きな目であたしをじろじろ見ている。
「ミカちゃん、お腹空いてる?」
「別に」
言った瞬間、胃のあたりがぐるると鳴った。
瞳子が吹き出して、その後大きな声で笑いはじめた。高めだけれどキンキンはしていない、心地いい声だとは思う……けど、今は正直恥ずかしい。消えたい。
黙って部屋へ戻ろうとすると、瞳子の声が背中から飛んできた。
「ごはん食べる―?」
「いい。この時間に食ったら太る」
「お腹空いてたら、悪いことばっかり考えちゃうよー?」
ドアノブに掛けていた手が、止まった。
ああ、確かに、確かにな。
このまま寝たって寝られる気がしない。頭ん中のクソオヤジが消えるまでは、うだうだしながら布団の中で転がってなきゃいけないんだろう。考えただけで忌々しい。
あたしは後ろを振り向いた。瞳子はソファから軽く体を起こしていた。キッチンの方へ、少し身を乗り出すようにしながら。
「食べるー?」
目を細めてにこにこと笑う、笑顔がまぶしい。
あたしがひとつ頷くと、瞳子は大きく頷き返して、キッチンめがけて駆けていった。
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