一.

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    ◇  数日後の夕刻。  茜が連れて行かれたのは、大学の正門から向かって北西の奥に位置するサークル棟の、トイレの前だった。  行先を訊いて、そこで花子さんを呼ぶことが妙に腑に落ちた。  場所によっても異なるが、サークル棟は常に薄暗い。  建物の表に面している部室は、昼から夕方にかけて日が当たるので良かったが、廊下を挟んで建物の裏にしか窓を取れない部室は酷かった。  茜が知る郊外の大学では、その多くが大学と私有地との境に、林とも呼べるような、鬱蒼とした並木をフェンスと併走させている。茜の大学とて例外では無かった。  その並木に面した建物裏手の窓は、光が入りにくいのだ。  サークル棟の裏に面する部室は昼も薄暗く湿気ていて、西日が差すことでようやく日の温かさを感じることができる。茜の所属するラテン音楽サークルでは、太鼓のヘッドが湿気で(かび)るの避けるため、建物の表側に部室を陣取るくらいだ。  そして、件のトイレは、正にサークル棟の裏に面していた。  割合美しい、白いタイル地で設えてあるのに、いつ行っても薄暗く、肌にまとわりつく湿っぽさがあった。  だからといって、そこに花子さんが出るなんて噂は、彼女の耳には入ってきたこともなかった。  トイレの前には既に四人の学生が待っていた。  そのうち、背中まで髪を伸ばし、フレアスカートを身に着けた女性が手を上げる。 「聡子!ありがとう」  そう言うと彼女は、聡子の手を握った。聡子は嬉しそうに笑う。 「あ、広川茜さんですか?」  女性は茜に気が付くと、そう言って微笑んだ。 「あ、はい、今日はよろしくお願いします」  と、返事をすると、女性は慌てて頭を下げる。 「こちらこそ、急にすみません。私、未由と言います」  そういう言う未由の髪が、ハラと肩を流れる。随分感じの良い人だった。  声も明るく、挨拶も丁寧で、人当たりも良い。人柄の穏やかさが言動に現れている。  その隣にいた、緩くウェーブの掛かったミディアムヘアに、ミニ丈のスカートを履いた、気の強そうな印象の女性が話し掛けてきた。 「今日はありがとね。愛美っていいます」  彼女は茜に笑い掛けると、すぐに何かしらを未由に囁く。未由の方は戸惑うように、曖昧な微笑みを浮かべているが、対照的な感じの悪さを、茜は感じざるを得なかった。  あと二人、明るい茶髪を内巻きのボブにしてカーディガンを羽織った、女子アナのような女性が沙綺、柔らかくパーマを掛けた茶髪を、無造作なハーフアップにしている女性が七海だった。  四人とも、正に『女子大生』とでもいうような、華やかな空気を纏っている。  その姿を見て、茜は少し気後れした。  羨ましいわけでは無いが、茜は地方から出ている身だったため、服にはお金を掛けられない。清潔感が出るように意識していたが、四人のように凝ったデザインの衣服は買うことができなかった。  人は見た目で判断してはいけない。そう判っているはずなのに、自分と四人の間に、透明なガラスでもあるように感じる。  見た目だけでなく、言動もそう感じさせるのかもしれなかった。未由はともかく、残りの三人は高めの声に、しなる動きでもって、コミュニケーションをしてきた。それが、悪いとは思わない。自分の友人にも、そういった子は沢山いた。  けれど、三人の仕草はどうも茜の癇に障った。  そう思ってしまう自分に対して、茜自身辟易(へきえき)もしていた。  そう思う自分が嫌で仕方なかった。 「四人はどういうご関係で?」  話題に困り、茜は四人に尋ねた。  愛美は何がおかしいのか、きゃらきゃらと、鈴を転がすような声で笑う。 「私たち、内進組なの。そうだよね。あんまりつるむようには見えないか」  愛美はそう言って同意を求めるかのように、チラリと未由の方を見た。未由は先ほどと同じく、薄い笑みを返す。  それを訊いた愛美は、この四人の出す空気感に納得していた。  ベタベタしているわけでも無いが、距離が近い。アイコンタクトがやたらと多い。そういったふいの仕草が、茜に四人の親しさを感じさせる。  『内進組』、独特のものだ。  この大学は、系列の中等部、高等部が存在する。大学が女子大であるように、系列校も女子校だった。  高等部まで進んだ生徒は、約三分の一がそのまま、この大学に進むことができる。  そこから進学してきた生徒は、『内部進学組』――略して『内進組』と呼ばれていた。  一部の内進組の間には、少し特殊な雰囲気が流れることがあった。それは、一言で『これ』と表すことができるものではない。長く一緒にいた者同士がわかる、家族意識というか、仲間意識を濃縮したもの――そうとしか、言いようのないものだった。  仲が良く、何を話題にしても楽しそうに笑い合い、外から何かが割り入ってくると、曖昧に微笑み合う。  四人の出す空気は、明らかにそんな『区別』が混じっていた。  ――聡子がいて良かった。  茜はそう思った。聡子が茜を誘った理由も、以前にも増して理解した。 「じゃあ、始めようか」  沙綺の一声で、それは始まった。  どうやら、オカ研の部員というのは、沙綺のことだったらしい。彼女は服装に似合わない大きさのショッパーから、次々と道具を出し始めた。  白い紙、黒いマジック、食塩、はさみ、――そして、小さく淡い、ピンクの百合のような……彼岸花のような花の束。  花子さんの儀式というと、『ノックをして声を掛ける』という簡易的なものを想像していた茜には、彼女が取り出す道具はとても奇妙に思えた。  隣の聡子も同じように感じたのか、沙綺に尋ねる。 「なんか、花子さんを呼び出すにしては、道具多くないですか?」  沙綺が意外そうな顔をして未由を見た。 「え、未由、ここの花子さんのこと言ってないの?」 「あ、ごめん」  肩を竦めた未由の言葉を訊くと、沙綺は軽く眉を寄せ、聡子の質問に答えた。 「ここの花子さんはね、会うのにちょっとした手順がいるの」  沙綺によると、サークル棟のトイレの花子さんに会うには、少し面倒な手筈を踏まなければならないらしい。  一、 花子さんに会いたい人の名前を書いた紙を用意する。  二、 それを切り刻みながら、トイレに散らす。  三、 更に、塩と彼岸花を混ぜたものをそこに散らす。  四、 トイレを流す。  五、 流したトイレのドアを閉め、ノックした後『花子さん、花子さん、いらっしゃいましたら、おいでくださいませ』という言葉を掛ける。  沙綺は真っ赤な彼岸花を用意したかったようだが、開花時期では無かったそうだ。今回はネリネ、という、同じヒガンバナ科の花で代用するのだという。  ネリネ、という花を訊いたことの無かった茜は、へえ、と返事をした。 「そうすると、数日以内に、紙に名前が書いてあった人の所へ花子さんが会いに来るの」  沙綺はそう言って、白い紙にその場にいる一人一人の名前を書き始めた。  自分の名前が、白い紙の上に姿を現す。それを見ながら、茜は言いようのない、静かな緊張を抱いていた。  沙綺はその場の全員の名前を記すと、それを未由に差し出した。 「ん?」 「私は花子さんに会いたい人間だから、警戒して出てくれないかもしれないでしょ。だから、はい。未由お願い」 「愛美でも七海でもいいじゃない」 「未由が一番真面目そうでしょ」 「え、沙綺なにそれ酷い!」  愛美が沙綺の言葉に反応し、二人でキャッキャと軽い言い合いをしている。  ふざける二人をよそに、「自分が儀式をしたくないだけじゃないのか」、と茜は疑念を抱いたが、それを口に出すことはしなかった。  未由は軽く溜息を吐くと、はいはい、と言って沙綺から紙を受け取る。 「どのトイレだっけ?」 「奥から二番目」  沙綺の言葉に、未由は滑るように個室に入っていく。個室の残っている茜たちに見えるように奥に進み、便器が陰にならないようにしてくれた。そして、こちらを見ながらハサミを取り出す。  ひと裁ち、ふた裁ちと、銀が閃いた。  まず、愛美。次に沙綺、聡子。再び、手を伸ばして七海、茜。最後に未由本人の名前。  細かく刻まれた紙は、踊るように散りながら、便器の中へと降り積もった。未由は七海から手渡されたネリネと塩を受け取ると、適当な量をばらばらと散らす。  彼女がタンクに付いた取手を捻る。ざあと音を立てて流れる水が、花と塩、白い紙を全て押し流していった。  その様子を見ながら、「精霊流しのようだ」と茜は思う。  全く異なる手筈を踏むのに、そんなことを思う自分がおかしくて、茜の顔には笑みが浮かんだ。  未由は個室から出てくると、日に焼けたピンク色の、木製の扉を引いた。ぎい、と音を立てて、和式の便座が見えなくなる。  そして、片手で扉を引いたまま、空いた手でノックをした。乾いた木を打つ高い音の後、彼女の声がトイレに響く。 「花子さん、花子さん、いらっしゃいましたら、おいでくださいませ」  それは、祈りのように聴こえた。  周囲は静寂に包まれ、空風の音だけが駆け抜ける。小窓の外の並木が揺れて、乾いた葉が擦れた。  どれほどそうしていただろうか。  沙綺が声を上げた。 「うーん、やっぱりこの場では出ないのかな」  そんなことを言いながら、彼女はまじないの施されたトイレの中を覗く。  扉の先――トイレの中も、これと言った変化は無い。  その後もしばらくその場で待つものの、怪現象……と言われるようなものは、何も起きなかった。  沙綺の「帰ろうか、もし何か見たら教えてね」という言葉が終いの合図だった。  軽く荷物を片付ける手伝いをする一方、茜は呆気なさに拍子抜けしていた。  学校で有名な花子さん……害をなすとは訊いたことの無いそれを、それならば見てみたい、と茜は思った。  直後に心中で頭を振る。以前、家族ぐるみで怪奇現象に巻き込まれた時にはえらいめに遭ったのだ。怖い思いはしないに越したことはない。  考え込んでいると、背後で声が遠ざかっていくことに気付いた。  慌てて振り返ると、いつの間にか他の五人は片づけを終え、茜を置いてトイレを出て行こうとしている。「薄情者」と、口の中で罵った。わけのわからない儀式の行われたトイレに、一人残されるのは御免だった。  手を洗った後、五人を追うように入り口から足を踏み出す。  ――ぎいいいいいいいい。  背後で音がした。  心臓が跳ね、身体が固まる。  この音は何だろう、と思考の端で考える。  単純に考えれば個室のドアの音だが、それはおかしな話だった。茜の後ろには誰もいない。五人は既に出て行ったのだ。誰が扉を開閉するというのだろう。  茜は、ゆっくりと振り返った。心臓の音が、耳に痛いくらいに響く。  トイレの中には、やはり誰もいなかった。  個室のドアは全て開いており、茜は気のせいだったのだ、と思い込もうとした。  再度、顔を前に向けようとした時、視界の端が鏡を捕えた。鏡に光が翻る。  光が過ぎると、映ったトイレの個室の中には、長い髪の女が立っていた。  息が詰まった。  後ろ姿で、顔は見えない。スカートから伸びる脚は、陶器のように白い色をしていた。蝋のような質感のそれが、奥から二番目のトイレの中に、うっそりと立っている。  悲鳴を飲み込み、茜は咄嗟に動いた。  奥から二番目の個室を勢い付けて覗き込むと、果たしてそこには何もいない。  見間違い、だったのだろうかと逡巡する。  先ほどは確かに女が立っていたように見えたのだ。  けれど、肌が気味の悪い白だっただけで、女は普通の格好をしていた。淡い色のスカートにパンプス。それが妙に現実感があって、茜には今見たものが夢か現か、なおのことわからなくなっていた。 「茜」  そう言って肩を叩かれ、茜の身体は跳ねた。  見ると、聡子が苦笑いして立っている。 「何?気になるの?」  肩で息をしている茜をよそに、聡子が個室の中を見ながら、そう言う。 「いや……何でもない」  嫌な汗が、自分の背を伝っていくのを感じたが、茜はそれを振り払うようにトイレを後にした。  四人と聡子とはその後、近くのファミレスでご飯を食べた。  サークルの話や、恋の話に華を咲かせながら話す友人たちを傍目に、茜は身の入らない会話を続けた。     ◇  ファミレスからの帰り道、四人と別れ、聡子と進む。 茜のアパートまでは、再び大学の正門を通ることになる。  聡子も偶然同じ方向だったので、電灯の少ない大学前の通りを、二人並んで歩く。  電灯と電灯の間を進む間に、眺める影は、縮んでは伸びを繰り返した。  時たま車が通ると、冷たい風が二人の肌に吹き付けた。  都会の冬は痛い、と茜が気付いたのは、上京してからだった。  排気ガスの焼け臭い香りと共に、吹き抜ける風が剥き出しの肌を刺激する。故郷の冬とは異なる様相に、茜は二年目にしてようやく慣れてきた。  雪が恋しい。毎年豪雪に苦しむ故郷から遠く離れた今は、ただ懐かしかった。  訳の分からないことに出会ったあとに冷たい風にさらされると、なおさらそう思えた。 「何か、変な会だったね」  ファミレスでの話を掘り返す気にもなれず、茜は今日の感想を大雑把に述べた。  聡子も伸びをしながら同意する。 「なんていうか、あの花子さん変だよね」 「うん……」  聡子も同じように感じていたのが、茜には嬉しかった。  地元の小学校や中学校で噂になっていたのは、トイレで話しかけると、花子さんが返事をする、とかその程度だ。そこからイメージする花子さんは、恐ろしくも、少し愛嬌があるような、皆が試すことができるような、そんな存在だった。  今回の噂も、花子さんが出てきて何かすることはない。  けれど、花子さんに会うまでの過程は、彼女の知っていたそれより遥かに凝っていた。  ――名前を粉々にして流す。  そのことが鈍く身を切られるような、切れない包丁を肌の上で滑らすような、冷や水を被ったような心持にさせた。 「あれ、何かテレビで見たことあるんだよね」  聡子はそう言った。 「テレビで?心霊系の番組?」  茜が尋ねると、聡子は言った。 「いや、そういうんじゃなくて……ああ、あれだ」  聡子はポンと手を合わせる。 「黒沢清、っていうホラー作品で有名な映画監督がいるんだけどね、その人がテレビ用に作った短編ドラマの作品に『花子さん』っていうのがあるのよ」 「ほうほう」 「それに出てくる、花子さんの呼び出し方とそっくり」  納得している聡子の傍ら、茜は首を傾げた。ホラーが苦手な自分にとっては、わからない話だ。 「そのドラマだと、どうやって呼ぶの?」 「ちょっと記憶が曖昧だけど、刃物と薔薇の花をトイレの床にばらまくの。で、ドアにハサミを突き立てる。そうして花子さんに願い事を言うのよ」 「願い事?」 「そう。そうして頼んだ願いを、花子さんが叶えてくれるってわけ」  それもまた変わった花子さんだ、と茜は思った。薔薇の花と刃物、というところに、何となく猟奇的な魅力を感じる。 「まあ、でも、そのドラマだと、登場人物全員死んじゃうんだけどね」 「え」  聡子の不穏な言葉にどきりとする。聡子は茜の顔を見ると、ニヤリと口の端を上げた。 「でも大丈夫よ。それはフィクションだから」  それに続いて聡子は「本当に怖がりだね」と、茜をからかった。茜は誤魔化すように笑う。だが現実では時々、洒落にならない怖いことが起こると、彼女自身が知っていた。でなければ去年、茜の家族に犠牲者が出ることは無かっただろう。 「だから、それの真似事かな、と思ったんだけどね」  そう言う聡子の傍ら、茜は考え込んでしまう。  沙綺が訊いてきた噂は、そのテレビ番組の花子さんをもじった、デタラメだったのだろうか。  だがあれが嘘ならば、茜が最後に見た人影。  あれは、何だったのだろうか。
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