二.

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    ◇ 「茜ちゃん、大丈夫?僕、バレたりしない?」  構内に入ってから、野々市は(しき)りにそのことを気にしていた。  気持ちはわからなくもない。他人の大学――しかも、特定の性別しか所属できない大学に入るというのは、何となく勇気がいる。 「大丈夫だから。堂々と歩いて」  茜はそう言って、野々市の背中を叩く。挙動不審さでバレでもしたら、それこそ野々市の人生の終わりだ、とヒヤヒヤした。  茜の通う女子大に男性が入るには、本来一週間前の入構申請が必要だ。それには氏名と電話番号、身分証。その三点が必須だった。  勿論、今回は申請が間に合うはずもない。  そこで、茜の所属するラテン音楽サークルの男友達に頼み込み、何とか申請枠と保険証を貸してもらったのだ。彼は数週間に一度、他校から通ってくる熱心なラテン音楽狂の学生だが、茜の事情を訊くと、快く協力してくれた。  本来は写真付きの証明書が必要なので、イチかバチかの賭けだったが、入り口の警備員は野々市の顔と、茜の様子を見てゴーサインをくれた。  この機会を逃すわけにはいかない。  正門から十分ほど歩くと、サークル棟は見えてくる。  目的地が視界に入ってようやく茜は安堵したが、野々市にとってはここからが正念場だった。  サークル棟に入り件のトイレに向かうと、茜は野々市を廊下の端に寄せ、自分は女子トイレに入った。そして、一番奥の扉――用具入れを目指す。  その中には『清掃中』と書いた立て看板があった。それを取り出すと女子トイレの入り口に置く。  更に周囲を見渡した。  人影は無い。  そうして、野々市に合図をすると、急いでその手を引き、トイレに招き入れた。 「うう……緊張する……」  野々市は顔を青くして、腹を抱えている。まるで、本当に腹を下した学生のようだった。  さすがに茜も同情した。  学校に入るのとは異なり、見つかれば警察沙汰になる。茜だって、逆の立場は御免だし、だからこそ来てくれた野々市には感謝しかなかった。 「とりあえず、私が入り口近くにいるから、早く調査して」  茜が言うと、野々市は緊張した面持ちで頷いた。  うーん、と唸りながら、野々市は辺りを見回す。  茜は入り口から外を伺い、人の気配がないかを確認した。 「……普通のトイレだね」  背後から聴こえる声に、「そうだね」と茜も同意する。 「それ以外に言いようが無いな。ちょっと他との比較のしようがないんだけど、このトイレ割と新しいの?」  その疑問に茜は記憶を素早く辿り、野々市の方を振り返った。 「どうだろう。私が入学した年には既にあったから、いつからあるかはわからないな」  ふうん、と野々市は独り言ちて、次々と個室を覗いて行く。  問題の、奥から二番目のトイレも覗くが、これにも首を捻る。 「まあ、でも綺麗だよね。『出る』とか言われるトイレって。高校のトイレも、花子さんに似たような噂があったんだけど、少なくとも男子トイレは綺麗だったし」 「そうなのかな……私は出身が田舎だからかわからないけど、うちの高校のトイレはタイル張りで汚かったな。学校内のトイレが綺麗だって思ったのって、大学が初めてかも」  野々市が興味深そうにこちらを振り返った。  地元にある母校のトイレを、茜は思い浮かべる。  色の禿げた木製の扉。目地の黒ずんだタイル。使い込まれ、汚れた和式便器。  トイレに入ってしゃがみ込めば、孤立したようで心細く、逃げ道が欲しくて顔を上げたくなった。  だがそのタイミングで、本で読んだ学校の怪談が脳裏をよぎる。  ――上から女が覗いていたら。  そんな不安が首を出すと、無防備な状態だというのも相まって、恐怖で身体は固まった。  このトイレのように、床や壁にビニール加工やメラミン加工がしてあるわけでは無かったし、電気もこんなに明るくない。  この『出る』と言われているトイレよりも何倍も『出る』雰囲気があった。  そう言う意味では、と茜は周囲に視線を巡らす。このトイレは構内の他の場所に比べれば薄暗い。  けれど比較すると、ここに『花子さん』が出るというのは、ますます奇妙な印象があった。  野々市は――非常に複雑そうな表情で、「写真撮ってもいいですか?」と尋ねた。  了承すると、彼は件の個室やその他にいくつか写真を撮影して、「出ましょう」と急かした。  トイレを出てサークル棟のホールにあるベンチに腰掛けると、野々市は伸びをした。 「あー……緊張した……」  それを見て、自然と笑みが出る。  入り口の自販機で買った缶コーヒーを渡すと、彼は嬉しそうに目を細め、礼を言った。 「なんか、凄く疲れた」  そう言うと、野々市は溜息を吐いた。ベンチの背に肩肘を上げて、すっかり脱力している。 「なんかごめんね、色々協力して貰って」 「いやいや、僕は好きでやってるから」  そう言って野々市は笑った。茜は目を丸くする。野々市や西念がなぜ調査をしているかなんて、久しく考えていなかった。 「野々市くんは、こういうこと好きでやっているの?」  尋ねる茜に、野々市は照れたように顔を掻く。 「オカルトとかにはもともと興味あって、高校の頃から同じようなことしてたんだよね。だから、その延長。あとは、取材の練習みたいなもの」 「へえ、何か目指しているものがあるんだ」  野々市は「まあね」と言って笑う。それを訊いて微笑んだ茜だったが、ふと、更に訊いてみよう、と言う気になった。 「西念さんは、何でこういう活動をしているの?」  それを訊いた野々市は、ふと顔色を曇らせた。それを見て、訊いてはまずかったのか、と焦る。 「あ、ごめんね。なにか地雷だった?」 「違う違う」  野々市は戸惑ったように笑った。どこか痛むような表情で、ますます茜は焦る。そんな彼女を傍目に、野々市は続けた。 「西念さんの事情についてはちょっと言えないんだよね。プライバシーの権利を守る、ってやつ?」 「え、何それ。ますます気になるじゃん」  茜は少しぶすくされる。茜の顔を見た野々市は、腹を抱えて笑った。 「なに、その顔。ウケる」  人の顔に対して失礼な野々市にイラついていると、彼はようやく笑いを引っ込めた。 「あー……笑った。まあ、西念さん本人は気にしてないみたいだけどね。けど、あの人の事情は、確かに他人が話すには荷が重いかな」 「彼、犯罪者なの?」 「いやいやいや。不愛想だし時たま犯罪起こしそうな目をしてるけど、そういうんじゃない。  近しい人の話をするにしても、世間話にできる内容と、近しい人だからこそ話すのが憚られる内容があるじゃない?そういう類の話」  野々市はそう言うと、少し目を伏せて溜息を吐いた。いつも見ている野々市の表情とは異なり、やはりどこか寂しそうだった。  茜が黙り込むと、野々市が顔を上げた。 「あ、そうだ。話変わるけど、この建物のある場所って、以前何だったかわかる?」  思い出そうとするが、茜は別にこの大学の歴史に関して明るいわけではない。恥を忍んで首を横に振る。 「うーん、どうしようかな」  野々市は腕を組んだ。 その時、サークル棟の入り口を、二人連れの女学生が通りかかった。そちらをチラ、と眺めた野々市は、立ち上がると二人に駆け寄っていく。 「すみませーん。僕、怪しく見えると思うんですけど、ちょっとお話伺ってもいいですか?」  そう言って笑う野々市に、女学生たちは戸惑うような表情を見せた。
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