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三.
◇
次の日、茜は午前の試験を終わらせると、急いで電車に飛び乗った。
向かうのは二十三区内。後で野々市と合流し、サークルのOGに教えて貰った女性の元を訪ねる予定だった。
国分寺でオレンジの電車に乗り換え、都心へと向かう。
新宿を過ぎ、そこから途中の停車駅で、予め車両番号を伝えていた野々市が乗り込んできた。
だぶついた大きめのトレーナーに黒のスキニーという出で立ちで、寒くないのか疑問を抱く。
「試験期間なのに、連日ありがとうね」
「いやいや。今期、ほとんどレポート課題の授業ばっかりだから気にしないで」
そう言って彼は、昇降口の隣にあるパネルに背を預ける。
電車は緩やかな勾配を上り、いつの間にか線路の脇には川が併走していた。
対岸のビルの広告文句や、川端の釣り堀が次々と流れ行く。車内アナウンスの流れる昼下がり。そこから見る風景は、都心なのにどこか懐かしさを感じた。
「茜ちゃんさ、未由さんのことどう思う?」
ふと、野々市がそんなことを言った。
視線を正面へ戻すと、彼は窓の外を見ながら腕を組んでいる。
「可哀そう、そう思った」
「ふうん」
茜の答えに、どこか納得のいかない風の野々市が、唇を尖らせている。
「何で?」
「……意地が悪いんだけどさ。僕は未由さんが泣いてるの見て、『都合がいいな』と思っちゃった」
茜は何と答えていいかわからず、昨日感じたことを伝えた。
「だって、いじめを止められない状況だって、あるじゃない。いじめをする子って、次に誰を標的にするか、わからないこともあるし」
「うん。それはわかるし、仕方ないこともあると思う。楽しんでいじめをやっている子ばかりじゃないのもわかる。
でも、『謝りたい』っていうのは、僕にはわからなかった」
「相手に悪い、と思っちゃいけないの?」
茜の問いに、野々市は頭を振った。
「そういうことじゃないんだ。懺悔をするのは自由だよ。けれどね、いじめられた方にしてみたら、相手がいじめの主犯格だろうと、サブだろうと、全然関係ない。皆等しく、『いじめられた相手』なんだ。トラウマが残ることだってある。それを、ただ謝って自分だけすっきりしようなんて、自分勝手だと思う」
野々市はきつい言葉とは裏腹な静かな表情で、窓の外を見続ける。穏やかな彼の激しい感情が、肌の表面を撫ぜる気がした。昨日の未由の態度に対して、そして過去彼女たちがしていたいじめに対して。
未由は今、怪奇現象の当事者であり、気が落ちている。そんな中で野々市は、軽率に本音を――怒りを伝えることができなかったのだろう。
茜は窓の外を見た。こっちでは珍しい曇りの冬空が、ビル群の上に鎮座している。
電車はもうすぐ、終着駅へ到着する。
◇
「懐かしいこと訊いてくるのね。あんたたち」
女性――築城は、そう言ってカラカラと笑った。
丸の内のカフェ。テラス席もあるが、まだ外でカフェラテを飲むには早い。暖房の効いた店内はホッとする暖かさだったが、当たる温風に顔が乾燥していくのを感じた。
奥の席を陣取った茜は、そんな室内でも肌がつややかな築城の前にいた。
きっと、良い化粧品を使っているんだろう、と頭の端で考える。
「すみません。学生時代のことなんて、今更尋ねて」
野々市が頭を下げると、彼女は顔の前で手を振った。
「いやいや、気にしないで。こっちだって、久々に学生気分に浸れてうれしいよ」
話していて気持ちの良い女性だった。
淡い色のパンツスーツに、紙をツーブロックにしているのもおしゃれだ。一見奇抜だが、彼女の雰囲気によく合っていて、上品に見えた。
外見については難しいが、将来自分もこういう風になりたい、という気持ちが沸き起こる。
六年前に、茜の大学を卒業したという築城は、かつてオカルト研究会の部長を勤めていた。オカルトだけでなく、音楽にも興味があったらしい。珍しい楽器のあるラテン音楽研究会を時々訪れては、楽器を弄っていたそうだ。そこで、茜の先輩たちと交流を深めたのだという。
「で、サークル棟の……花子さんだっけ?」
築城がコーヒーに口をつける。野々市が「はい」と返事をすると、築城は首を傾げた。
「確かに、花子さんはいるって言われてたね。
けど、それは前のサークル棟のこと。新しい棟に移って噂も伝播すると踏んでたんだけど、当てが外れたね。私が卒業するまでは、ほとんど花子さんが出るなんて言う子はいなかったな」
野々市と目を見合わせる。旧サークル棟時代にも、やはり花子さんはいたのだ。
「でも、大学に花子さんって、不思議だと思いませんでした?」
野々市が尋ねている傍ら、茜はレコーダーのオレンジの明かりを見つめた。
「あー、思った思った。けど、あの大学は、元々女子塾だからね」
「といいますと?」
「歴史が古いんだ」
茜は首を傾げる。それは誰もが知ることではあった。だがしかし、それが花子さんと何の関係があるのかはわからなかった。
築城は話を続ける。
「トイレの怪談自体は古くからあるものだ。折口信夫の本にも厠へ行くと穴から伸びた河童の手に尻を撫でられる、といったものがある。『花子さん』は、そういった怪談が形を変えて現代まで残ったものだと考えられる」
話が見えず、助けを求めて野々市をみるが、困ったことに、彼は話に聞き入っている。
「これは持論だが、『学校の怪談』が長く語り継がれるには、それなりの素地が必要だと思うんだ。
例えば、噂だけが存在しても、それが定着するような『年月』がその学校になければ、ただの怖い話が『学校の怪談』として定着するまでには至らない。怖い話に懐疑的な年代の人間が集まる、『大学』であれば特に、だ。
けれど幸いなことに、あの大学は歴史だけはあった。だから、トイレについての怪談が、当初の形から手を変え品を変え現代まで残ったというのは、私は納得できたけどね」
ようやく、茜は話の着地点に降り立つことができた。確かに、人の噂は変容しやすい。ただの世間話も、すぐに尾ひれが付いて広まる。花子さんの噂も、当初は全然異なる妖怪について語ったものが、昔の流行りによって変容した可能性もあり得る。
聞き入っていた野々市も、頻りに頷いていた。しばらく考え込んでいた彼は、口を開いた。
「築城さんの学生時代は、花子さんの目撃談とかありましたか?」
「実際に会った子は見たことないね。まさに『学校の怪談』らしかったよ。噂はある。けれど誰も見たことはない。噂だけが一人歩きしている状態だったね」
「……花子さんが、誰かを襲う、ということはありませんでしたか?」
野々市の質問に、築城は目を丸くして、軽く笑った。
「いや、そんな邪悪な噂じゃなかったよ。少なくとも、ノックしたら声が聞こえるとか、そんな程度のものだよ」
それを訊いて、茜は思わず野々市を見た。野々市は真っ直ぐに、いつになく真剣な顔をしている。
その手に視線を移すと、少し緩めて膝に置かれた手に、キュッと力が籠められた。
「……変なことを訊くかもしれませんが、花子さんの呼び出し方は、ノックするだけでしたか?」野々市は「例えば」と続ける。「名前を書いた紙と、彼岸花、塩をトイレに流す、といった方法ではありませんでしたか?」
築城は胡乱げな表情で野々市を見つめた。
「いや、そんな大層な方法じゃないよ。それにそれ、何か勘違いしてない?」
「勘違い、っていうのは……」
「いや、その彼岸花云々って、一時期大学で流行ったまじないか何かだよ」
「何のまじないなんですか?」
野々市が慌てた様子で尋ねると、築城は何か考え込むような表情をした。だが何かを諦めたような様子ですぐに困ったように笑う。
「それが……恥ずかしながら、ちょっとど忘れしちゃって。大学時代のノートにメモしてあるから、帰ったらまた連絡するよ」
築城との話し合いはそこで終わった。
場を辞す前にトイレに行くと、彼女はその間に三人分の支払いを済ませていた。野々市がお金を返そうとすると、「楽しいお喋りをさせて貰ったから」と、笑って辞した。
礼を言って築城と別れると、野々市はすぐに西念に電話を入れた。
普段通りに茶々の入れ合いをしている様子だったが、最後に野々市は不服そうな顔をして電話を切った。
「どうしたの?また何か頼まれた?」
心配になった茜が尋ねると、野々市は肩を竦める。
「西念さんに彼岸花の儀式は別のまじないだった、って伝えたら、『やっぱりな』って言われただけ」
そう言うと野々市は、不貞腐れて帰り支度をし始めた。
◇
七海の死から四日目。
夕方になるまで、西念と野々市の連絡は無く、茜の気持ちは焦っていた。
もし明日、また死人が出たら。それを考えると気が気では無かった。
試験の最中も、大して集中ができない。イライラとこめかみを叩きながら、やけに時計ばかりが気になった。
一人暮らしの部屋に帰った後も落ち着かなかった。いくら原因が未由の高校時代の友人で、聡子や自分には害が及ばない可能性があっても、あの優しげな女性が凄惨な方法で亡くなってしまうのは、彼女には耐えきれなかった。
加えて、やはりどこかで「自分も死ぬのではないか」という恐怖もある。早くこの件を解決させてしまいたかった。
だが、試験やレポートの中で調査をしているのは、西念や野々市も一緒のはずだ。これ以上急かすのは気が引けた。部屋を行ったり来たりし、カフェラテを淹れたり、レポートの続きに手をつけるも落ち着かない。
そうして夜遅く、躊躇いながらも遂に野々市へ電話をかけた。
「あ、野々市くん?」
「茜ちゃん、どうした?」
どうしたも、こうしたのも、進捗が気になるのだ、と茜は野々市の呑気な様子に内心腹が立った。
「いや、例の件どうなったかなって」
電話口で野々市は「あ~……」と、どういう感情なのかわからない声を上げている。
「今日、お祓いしてもらって、無事解決したよ!良かったね!」
瞬間、茜は疑問に思った。
野々市と西念には、普段依頼できるような拝み屋の知り合いはいなかったはずだ。
「……野々市くん、嘘吐かないで」
スピーカーの向こうの野々市が、沈黙する。その間は酷く気まずい空気を醸し出していて、茜が次の言葉を紡ぐのを迷わせる。
「彼女、助からないの?そういうことなら、そう言って欲しい」
恐ろしい、という感情を隠しながら、茜はそう絞り出す。たった半年ばかりの付き合いだが、野々市と西念にはそれなりに敬意を払って接してきたつもりだ。
だからこそ、下手な嘘は吐いて欲しくなかった。
スピーカーから、溜息が漏れ聞こえた。
「ごめん。黙っているつもりは無かったんだけどさ」
そう言うと野々市は、一呼吸置いた。
「……事件自体は、本当にもう解決してるらしいんだ。だから、さっきみたいなことを、未由さんにも伝えてる。今後、誰も死ぬことは無い」
「らしいって、どういうこと?」
「何というか……西念さんが話してくれないんだよね。僕も『もう事件は解決したんだからいいだろ』って言われちゃって……」
困ったように言う野々市の話に、茜は溜息が出た。
「ねぇ、それはおかしいよ。私、野々市くんと西念さんを信頼して依頼をしているの。勿論、二人が破格で調査をしてくれていることもわかっている。けれど、依頼人にはしっかり完了報告をするのが、調査員の務めじゃないの?」
茜が捲し立てるような形になった。自分が憤っていることに気付き、胸に手を当て気を落ち着かせる。
野々市は気にした様子もなく「それもそうか」と惚けた返事をする。
「電話口じゃなんだな。明日、土曜だけど時間ある?国分寺まで出てきて欲しいんだ」
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