4話

8/11
前へ
/68ページ
次へ
「柚希の耳垢なら大歓迎かも」 「気持ち悪ィこと言うんじゃねえよ!」  昨日までとはいかないが、それでも目に見えて真っ赤になった柚希に、光は声を出して溶けそうな笑顔を見せる。  低すぎる沸点に達した柚希が右手を振りかざしてスネアドラムをスティックで強く叩くと、金属特有の高く細かい響きとプラスチックのクリアな芯のある響きが混ざった抜けのある音が光の鼓膜を激しく震わせた。視聴覚室で聞くよりも格段に大きな衝撃であろうその音に光の体はびくんと震え、笑いを強制的に停止させる。  思った以上に反応した光に少し気を良くした柚希は、ふん、と鼻を鳴らして左手に持ったスティックを自分の左耳に二、三度当て、忠告した。 「もっとでかいからな、耳つぶれっぞ」 「そ、そうだろうね」  ぎこちなく口角を上げて、光がいそいそと耳栓を着ける。その間に、柚希はドラムイスの後ろに置いていた紙の束を拾い上げた。  手書きで荒く書かれたそれは、何かの曲のドラムパートのスコアだった。昨日光に顔を叩かれたときに使われたのがこのスコアだ。タイトルは空欄。帰宅してから改めてきちんと目を通し、新聞紙等で作った簡易ドラムで譜面を追いながら今まで聞いたことのある曲のドラムパートの音を思い出してみるも、どれにも該当しないリズムだった。 「いい加減これがなんなのか教えろよ」  朝から何度か何の曲なのかと光に問うてみたが、光が答えを口にする様子は微塵もなかった。今も、柚希の半ば命令とも言える問いかけに、光が答える素振りはない。 「やったら分かるって言ってるじゃん」  耳栓を着け終え、一度鍵盤をポンと鳴らし音の感触を確かめた光が、高揚感を抑えきれないといった様子で柚希に振り返る。まるで先日、柚希が不覚にも光に聴かせることになった曲が即興曲だと発言したときのように。  柚希の脳内に浮かんだその考えは、光の「ほら、やるよ」という催促でかき消えた。 「ミスしても止めないからね」 「するかよ。なめんな」  挑戦的な視線を受けながら柚希がそう返すと、光はにっと笑って前に向き直り、鍵盤にすらりと長く伸びた指をそっと置く。前動作なしにすっと吸い込んだ息を吐くと同時に、鍵盤の上でその指が華麗に踊り出した。
/68ページ

最初のコメントを投稿しよう!

77人が本棚に入れています
本棚に追加