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「やっと帰ってきたね」
戸を開けた瞬間に、声変わりのとっくに済んだ中低音の声が響いた。明かりのない部屋の中は黒に満ちていた。わずかな空の光が戸口から注がれ、クロマノールの身体を照らしている。足元の青い靴紐だけが、光沢を放っていた。
「縁起悪いぞ。なにかつけろよ、青のランプとか」
背後のノールが巨体を震わせた。暗いところに入るのが怖いのだ。この馬は、図体は大きいのにどこか怖がりなところがある。
「つけないこともないけど、まぁ、黒も悪くないだろ」
クロマノールが手元のペンを一振りした。ペン、といってもただの筆記用具ではない。かれは作家科の生徒だった。かれのペンは、古代科の杖、楽師科の楽器、剣士科の剣と同じく、魔法を宿している。おれにはまったく感じられないけれど、クロマノールのペンはほかとは違い、異質で珍しく見えるそうだ。そして強い。
その、強い魔法が発動する。ランタンのような形をしたガラスたちが現れ、いっせいに発光した。淡く、柔らかく、しかしたしかに青白い光が部屋の中に満ちる。ノールが安堵したように背中を落とした。いつのまにか、巨体のノールが問題なく入れるように、戸の形が膨らんでいた。
クロマノールの属する作家科では、生徒一人に一軒の家が与えられている。単純に生徒数が少なく、また科の性質としても大きな施設が必要ないから、余らせた土地を生徒に還元しているのだ。おれの属する獣使い科も生徒数は作家科以上に少ないが、獣の寝床や遊び場のために多くの土地が割かれているから、生徒の寮室はそれほど大きくない。作家はトクだ。
「外はどう、変わりない?」
「変わりない。マルムがいちばんさ。外にいる子供は獣使いだって、どうしたって知られる」
クロマノールはわらい、木製のコートハンガーから薄い外套を抜いて左側の身体にはおった。
「ごめん、ちょっと寒くてね」
「いや、たしかに風が冷たい」
閉めよう、とおれは踵を返したが、おれの手が伸びるよりもさきに、戸はバタンと音を立てて勝手に閉じた。驚いてクロマノールの手元を見たが、ペンが振られた様子はない。
「先週戸を変えたんだ。勝手に閉まるように。あと、迷惑な客が来たときには明かりを漏らさない仕組みとか、意地でも開かない気の強さもつけた」
「相変わらず人間嫌いなんだな」
六、作家の連中はやたらと理屈っぽくてプライドが高い。
そして偏屈で人間嫌い。これもこの世界の常識だ。
「そっちだって。クロマが、きみの協調性のなさは酷いって嘆いてたよ。その子は喋るの?」
クロマノールが、かれの名を冠したノールを覗きこむ。ノールは今、多少大きな猫のサイズにおさまっていた。形がある程度変化するのも、月馬の面白い特性の一つだ。
「喋らない。けど、知能はかなり高いな。言っていることは全て通じるし、ある程度の意思疎通もできる。名前はなんだと思う?」
「クロマの次に捕まえた子だよね。なんだろうなぁ、当てたくない」
「ノールにした」
「そう、じゃあぼくはその勝手に閉まる便利なドアをきみの名からアーチピタと名付けようか」
クロマノールがわらう。その背後から、大きく曲がった角を持つ蛇が現れた。ノールがまた震えるのを感じ、おれは苦笑しながら月馬の頭を撫でた。
「ほら、ノール、これがクロマだ。何度か話しただろ?」
「クロマ、もう少し優しそうな顔をしたら?」
クロマノールがしゃがみこみ、蛇に話しかける。答えるように、隙間風のような鳴き声がしたあと、およそ蛇の喉から出ているとは思えないほど明瞭な声が響いた。
「……べつに、怖がらせるつもりはない」
蛇の姿で器用なことだ。すっと尻尾だけで立ち、中腹に生えている鷹のような足(クロマはこれを手のように使っている)を、ノールへ差し出している。
「互いに面倒なやつに飼われたな」
ノールが猫のようにおずおずと近づき、握手を交わし合う。そうか、この二匹は複種の動物がよく混ざっている獣だが、どちらも手だけは鳥の手なのだ。おれの、空への憧れが現れている。
「三年で二匹、しかもこんなに良い獣を得るなんて。さすが、アーチピタは違うね」
「そちらこそ。中等部なんてお遊びだっていいつつ、もう家をこんなに育てたうえ、クロマともそれなりによろしくやっているようで」
「きみの命令があるからだよ」
七、獣は獣使いにしか懐かない。
そして獣は、自身を馴らした主人以外には従わない。
新しい獣を得るため島外に出たかったので、先に得た蛇のクロマのほうはしばらくここに預けていた。クロマノールはクロマに何か指示を与えることはできない。懐くこともない。ただ、この蛇は人語を解し、話ができる蛇なので、同居人としてはそれなりにうまくやれていたようだ。
「クロマ、ノール、高等部は基本的にお前たち二匹だけでやっていこうと思う。ここは人間が多くてちょっと嫌かもしれないけど」
まったくだ、とクロマが言い、ノールは面倒そうに鼻を鳴らした。
「でも、おれの故郷なので」
六歳から十八歳まで、限定された期間にしかいられないこの学園を故郷と呼ぶのはすこしおかしい。しかしこの学舎の子供は皆、この巨大な城をそう呼んでいたし、帰るべきところとして寮の色と月を掲げていた。赤の月は戦士の月、黄の月は楽師の月、青の月は作家の月、緑の月は薬師の月、白の月は古代の月。
そして獣使いの帰るところは、己の馴らした獣のところ。
「きみが生き物を馴らすなんて絶対に無理だと思ったんだけどなぁ」
「おれも、きみが物語を書くなんて、絶対に無理だと思ってたよ。あの戸はどこに式を書いてあるんだ?」
「覗き穴の淵のところ。用心深くして、人を信じてはならないという教訓を込めた、童話が書いてある」
八、魔法の発動のさせ方はさまざまだ。
楽師は音階で、剣士は剣舞で、そして作家は物語や数式など
なにかしらの記述を行うことによって、魔法を行使する。
「エピローグまで書いてあるんだ。崩れる時は美しくしてあるように。教えに逆らい戸を開いてしまった子供は、狼に食べられてしまいましたとさ、とね」
「狼ねぇ」
と、蛇が小馬鹿にした。
時間を知りたくて、おれは空を見ようとぐんねりと頭を回す。しかしこの部屋に目立つ窓はなかった。相変わらず。
「ああ、もう夜だよ。空はすっかり紫で、あの黒い染みがよく目立つ。暗いのは好きだけど、夜は嫌いなんだ」
隠されたような小窓を開き、夜空の紫を見上げて、クロマノールが言う。かれのペンを振るう指先はどす黒い闇の中に落ちていた。
九、夜空の色は紫色。しかし東の方に、とんでもなくどす黒い、
世界の痣が滲んでいる。空に黒い部分があったってことが、
いつか御伽噺になってほしい。
そして十。
十、この世界は、ひとつの脅威に、
始まりのころから晒され続けていて、
その世界の病の名前をニグラムと呼ぶ。
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