口幼稚園

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口幼稚園

 子供達は振り返ったが、既に口は閉じられていた。辺りに明かりはなく、子供達は闇の中で自分を含めた子供達の嗚咽を聞き、掌と同じような冷たく柔らかい地面の感触を覚えていた。  地面には掌と違い、粘液が張られていた。それに触れた子供が悲鳴を上げ、その悲鳴と水の跳ねる音を聞いた他の子供達が悲鳴を上げた。 子供達の恐怖がピークに達したのは、化け物が舌を動かし始めた時だった。叫び声が個騙す中、化け物の舌は波打ち、子供達を口の隅に運んだ。そこには化け物の歯が整然と並べられており、子供達は歯の上に寝かされる格好になった。  子供達は必死に逃げようとしたが、その前に化け物に噛み潰された。化け物は、一度脇に子供達を逃がした後、再び舌で歯に乗せて潰した。その一連の流れを子供達が歯に抵抗しない程柔らかくなる迄続けた。そしてその咀嚼は子供達にとって様々な規制だった。子供達は、まずは決まった服を着る。という咀嚼に遭い、黄色の帽子とゴミ袋のような水色の服を着させられる咀嚼に遭い、決まったバスに乗って、決まった教室に行く。という咀嚼に遭った。そして周囲にいる自分と同じ服装の子供達と、同じことをしなければならない。という咀嚼に遭った。  この物語の主人公もその例外ではなく、化け物の口の中で窮屈さを強いられていた。しかし泣き喚きながらも、主人公達の心は挫けなかった。それは主人公達にはまだ排泄物が付いており、その温かみが主人公達を勇気付けたからだ。もう主人公達は排泄物の腐臭に傷付くことはなかった。それは化け物の口の中も同じ匂いがしていたからだ。対照的に化け物の体温の冷たさが排泄物の温かみを引き立たせた。  挨拶、運動、昼寝、食事、紙芝居、その他の行事・・・主人公達はそのような咀嚼を経験するに従って、目が慣れて辺りの様子が分かるようになりつつ、自分が徐々に圧迫感を覚えなくなっていることに気が付いた。しかしその理由が、自分が固くなっているからなのか、それとも柔らかくなり過ぎているからなのかの判断は付かなかった。  このことについて、周りの子供達の中でも主人公は特に興味を抱いていた。咀嚼は次から次に起こるので、大抵の子供はその忙しさによって問題を忘却せざるを得なかったが、主人公には自分の頭から問題がなくなりそうになると、恐怖を覚える性質があった。主人公は考えを放棄していることを自覚する度に、慌ててそれを引き戻した。やがてその工夫は主人公の癖となっていった。  自分が明確な言葉によってではなく、感覚によって圧迫感を覚えなくなった原因は何なのかを考えていた頃、主人公は一学年上の子供に出会った。その子供とは行事の咀嚼の拍子に寄り合い、話すきっかけを得た。  相手は目鼻立ちのはっきりとした女の子だった。主人公がどぎまぎしながら相手の名前を尋ねると、女の子は「持田百香」と名乗った。  しばらく他愛もないお喋りをしたり、お店屋さんごっこをしたり等遊んだりして、主人公が女の子を「ももちゃん」とあだ名で呼び始めた頃、主人公は自分の疑問をももちゃんにぶつけた。 「なんでこんな決められた通りのことやらなくちゃいけないのかな?」  ももちゃんは少しの間難しい表情をした後、答えた。 「そんなこと考えても仕方ないよ?」 「え?」 「だってそんな風に頭痛くしてたら、楽しくないじゃん」 「そっか・・・」と言うので精一杯だった。主人公は恋心から自分の性分について悩んだが、その悩み自体も悩みの対象となり、主人公はひたすら化け物の口の中で悶々とした日々を過ごした。そしてある時、問題は結論に至った。  咀嚼に耐えられるようになったのは、咀嚼されるという現実を諦めているからだ。  そう考え始めると、主人公は急に自分だけが周囲から浮いているような気持ちになった。楽し気な仲間達の輪を、頭を抱えた自分が外から見ていた。  主人公にとって意外だったのは、自分がその気付きによって心底悲しい気持ちにはなっておらず、心のどこかに無知な者達に対する優越感があることだった。その密やかな幸せを、主人公は圧迫感を覚える度に感じた。  ある時化け物の口が開けられたが、子供達はそこから出て行くことができなかった。それは同時に子供達が口の奥の方に流されていったからだ。外までの距離は、あっという間にそれを埋めるという発想を子供達にもたらさない程圧倒的に長くなった。表から差し込む光は、子供達にとって太陽のように背景の一部に見えた。  他の子供達と違い、主人公は表に出て行くことを諦めていた訳ではなかったが、その足の歩幅は雀の涙で、流れには全く逆らえず、再び口が閉じられた。  悔しがりながらも、主人公は別の解決策がある筈だと、また一人で頭を悩ませた。そして一年後、また口は開かれた。  主人公はもう外に出て行くことを諦めていた。それは一年での成長分を嘲笑うかのように、化け物が主人公達を更に口の奥へと移動させたからだ。  更に、ももちゃんが喉の奥に消えようとしていた。眼前の光景に早々に心を砕かれた主人公にとっては、そちらの方が重大な問題だった。 「怖いよ」とももちゃんは舌の壁の向こう側から主人公に手を伸ばした。主人公はその手を掴んだが、二人は化け物の力であっけなく引き離されてしまった。  また辺りが暗くなった。悲しみに暮れた主人公は、涙で濡れた頬に排泄物に当てて寂しさを紛らわせた。そしてその後の一年間をまた咀嚼の苦しみを忘れないように心掛けながら過ごした。主人公にはそれ以外の楽しみがなかった。同学年の友達がいない訳ではなかったが、主人公は友達に心を許すことはなかった。しかしそのことによる優越感は、ももちゃんと一緒にいた時と比べて純度が高く、寂しさを誘発するものではなかった。  主人公は意識しつつも、自分が柔らかくなってゆくことには抵抗できなかった。ただその速度は周囲の子供達と比べて遅かった。  口に入ってから3年が経った頃、化け物が主人公達の学年を飲み込んだ。主人公にとって幸運だったのは、ももちゃんと会いたい気持ちが主人公に嚥下への抵抗をさせなかったことだった。もし主人公が化け物の内壁にしがみ付いたなら、化け物は主人公を徹底的に噛み潰し、主人公の幼い反骨精神を徹底的に破壊しただろう。しかしそうはならず、主人公は問題意識を持ったまま滑らかに喉の奥に流されていった。
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