六章 六日前

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 なだらかな下り坂に差し掛かったところで、かみおい荘が見えてくる。向かいの公園には幼児を連れた母親が井戸端会議をしていた。咲子はまだ来ていない。  公園の入り口に自転車を停め、ベンチに座る。カバンから水筒を取り出し、麦茶を口に含んだ。  すっかり春だなと思いながら空を見上げると、桜の花びらがヒラヒラと落ちてくる。その花びらを目で追っていると、ボールが転がってきた。それを追いかけるように男の子が走ってくる。 「すみません」  井戸端会議をしていた母親の一人が男の子に駆け寄り、頭を下げる。 「いえ」と言ってボールを拾った俺は、男の子に手渡した。  浩紀ならこういう時、愛想よく言葉を返してコミュニケーションを取るんだろう。母親に対しても『いえ』だけで終わったりなんかしない。『晴れてよかったですね』や『公園日和ですね』などの言葉もスラスラ出てくるはずだ。だから咲子も、浩紀を彼氏に選んだんだ。告白する勇気すらない俺は、二人の背中を見つめることしか出来ない。いつまでたっても金魚のフンだ。
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