初恋の人の正体

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初恋の人の正体

         電話で説明するよりは実物をと思い、スーツを着た雪晴と共に会社に向かった。  一応事前に電話口で龍仁に伝えたところ、鼻で笑うというよりも愉快そうにしていた。そして、そこまで言うならばこの目で見てみたいと子供のようにはしゃぐ始末だ。  いつも龍仁の部長らしからぬところには振り回されてきたのだが、今回ばかりは感謝の言葉に尽きる。  実際に見て信じてくれるかは別だが。 「おはようございます。宮坂さん、そちらの子は?」 「おはよう。あ、ああ、親戚の子供で、しばらく預かることになってな。今回は社会見学だ。部長には話を通してある」  雪晴が受付でうまく誤魔化してくれたおかげか、それ以上好奇の目に晒されることは防げた。  雪晴と蒼の共通認識で、騒ぎになることを防ぐため、なるべくこの秘密を明かすのは最小限に止めようということになった。ちなみに、実物を見てからだが、蒼は急遽遠方に長期間出張に行ったことにしようと龍仁は言っていた。  ただ、その誤魔化しがいつまで通用するかは分からないが。  部署に着く手前の会議室で立ち止まり、ノックをして返事が返ったところで雪晴と共に入る。事前にこの部屋で話をすることを決めていた。 「部長、おはようございます。こんな姿ですみません。本当はちゃんとした格好をするべきだったんですが、スーツは合わなかったので」 「ああ、おはよう。別にそれは構わ……」  雪晴と共に挨拶をすると、龍仁は挨拶を返しかけたところで、蒼を凝視して固まった。 「き、君は……」 「?……はい、私が海藤蒼ですが……部長?」  龍仁は蒼の顔を穴が空くほど見つめたかと思うと、何事かを呟いて呻いた。 「そうか、やっぱり……」  と聞こえた気がした。  隣の雪晴を見上げると、彼も蒼と目を合わせて首を傾げた。 「部長?」  物思いに沈んだ様子の龍仁に再度呼びかけると、龍仁は我に返ったようにはっとした顔をして、わざとらしいくらいに厳めしい表情をつくって咳払いをした。 「それで、電話である程度聞いたが、海は酒を飲んで、実に面白いことに……。いや失礼。海は偶然見つけた酒を飲んで、意図せずしてその体になってしまったというわけだな。そう、面白がってはいけない。これは不慮の事故みたいなものだ」  後半は自身に言い聞かせるように強調していた。 「はあ、まあそうです。事故と言えば事故ですね」  絶対面白がっているだろうと思ったが、取り敢えずツッコまずに合わせることにする。 「それで、戻る方法は分からないのだろう?」 「ええ、今のところは、ですが。でも探せば見つけ出せるかもしれません」  内心、あの店員、紅葉が素直に口を割ってくれるなら、と付け加える。  紅葉も紅葉で、この現象をどこか面白がっている風だった。そして、戻る時の代償とは一体何なのだろうか。何にせよ、嫌な予感しかしないのだが。  そして、更に言うならば、こんな体になってしまっただけで、本当に願いが叶えられたとは思えない。紅葉は、この年齢の時に初恋の相手と会ったからこうなったともっともらしいことを言っていたが、上手く騙されただけで、実は実験台にされたのではないだろうかと疑いたくなる。  嫌な想像を膨らませつつある蒼をよそに、龍仁は話を続けた。 「それでも、どっちみちすぐに戻れるわけではないということだな?」 「ええ。そうですね」 「そこで問題が出てくるわけだが、その体ではとてもこれまでどおりに出社してもらうわけにはいかない」 「あ……そうですよね。でしたら、いつ戻れるか分かりませんし、私はくびでしょうか」  願いのことばかり考えていたせいですっかり失念していたが、それは考えなくともすぐに出るはずの答えだった。六年も勤めた会社をこんなかたちで辞めることになるのは不本意だが、状況が状況だ。致し方あるまいと、無理に哀しみを顔に出さないように努めていると、龍仁は意外なことを言った。 「何を言っているんだ。海をくびにするわけがなかろう。六年真面目に働いてくれているし、君の代わりはそうそう見つからない。しかし、くびにしない代わりに条件がある」 「条件、ですか?」 「まず、これは当たり前のことだが、できるだけ早く元の姿に戻れるように努めること。それから、元に戻るまでの間も、当然生活費も稼がないと海は生きていけない。それならば、仕事内容は限られてくるが、特別に在宅勤務ができないか上に相談をしておく。その体になったことは上手く誤魔化しておくから、俺に任せておけ。きっちり在宅勤務をしてもらうぞ」 「え、いいんですか?条件と言うより、むしろ渡りに船です。ぜひお願いします」  頭を下げかける蒼を制して、龍仁は雪晴に目を向けた。 「宮坂、ものは相談だが、中身は大人でも、中学生姿の海を一人暮らしさせるというのもいろいろと不安だと思わないか」 「そうですね。万一犯罪に巻き込まれた時、一人で対処できるか分かりませんし。子どもだと嘗(な)められることも十分に考えられますね。それに、その姿でそのまま同じ部屋に住むというのも、隣人から妙に思われるかもしれませんし」 「そうだろう。そう思うよな」 「え?いや、別にその辺は心配されなくても、大丈夫で……」  勝手に話が妙な方向に進んでいきそうだったので、慌てて否定しようとしたところ、突然横から伸びてきた手に腕を掴まれた。 「えっ、ちょっと何」  振り解こうとするも、雪晴は何かを検証するような目つきで、強く掴んで離さない。元の姿であれば振り解くことも可能であっただろうが、今の姿では筋肉量も力も足りていない。そこまで考えて、雪晴が意図することを察した。 「分かったから、手を離してくれないか」  降参というように掴まれていない方の腕を上げると、雪晴は頷いて手を離した。腕を見下ろすと、軽く痕がついてしまっている。  視線を感じて顔を上げると、龍仁がその腕を見ていた。 「……そういうわけで、俺も宮坂も海が一人暮らしを続けるのは不安がある理由は分かったな?」 「ええ、それはまあ……」 「そこで最後の条件だが、海はしばらく宮坂か俺のところで生活してほしい」 「はい。分かりました。でしたら、宮坂のところで……」  気心が知れているし、上司のところに厄介になるわけにはいかないだろうと思って言いかける。  しかし蒼の言葉を遮って、雪晴は首を振った。 「すまないが、俺の家は家族の出入りが多いから駄目だ。なるべくこのことを知る人間は最小限にということだったからな」 「あ、そうか。宮坂のところは実家が近いのか……」  となると、残されたのは龍仁のところしかないわけで。 「部長、すみませんがしばらくお世話になります」 「おう。海なら大歓迎だ」  頭を下げると、龍仁は満面の笑みを浮かべた。それが嬉しそうに見えたのを不思議に思ったが、その時はあまり深く考えなかった。    その日の晩、仕事帰りの龍仁に迎えに来てもらって向かった先には、マンションではなく一軒家があった。それも、こじんまりとしたものではなく、普通に家族と住んでいそうな大きさで、祖母が住んでいた家を思い出すような古民家といった感じだ。 「部長、本当にお一人で住まわれているんですか?」  招かれるままに緊張しながら中に入ると、中の装いも外側から見たイメージそのままで、伝統的な純和風といった造りをしている。ただ、部分的に洋式も取り入れてあるようで、居間や台所だけは見慣れたかたちをしていた。 「ああ。親は早くに他界したからな。早くと言っても、俺がちょうど海ぐらいの時だったか。海がうちの会社に来る前だったから知らないか。二人とも結婚何年目かの旅行に出ていた時の事故でな。事故という言い方はちょっと違うかもしれないが、海外旅行先でテロに巻き込まれて。当時はニュースにもなった」 「そう、なんですか。すみません……」 「いいや。その時は、避けられない宿命というものはあるのだと知った。自分の無力さをあれだけ実感したことはない」  仏壇の前に立ち、両親と思われる二人の写真を眺める龍仁の言葉が、昔の自分と重なった。きっと、あの時あの男に出会わなければ、蒼もずっと悲しみから抜け出せなかっただろう。もちろん、完全に癒えたわけではないが、少なくとも軽くはなった。  龍仁には果たして、そんなふうに悲しみを軽くしてくれるような存在はいただろうか。そう思うと、自然と言葉が口を突いて出た。 「焼香させていただいても、いいですか」  龍仁は蒼を振り返り、少し驚いたような顔で、ああと言った。  生前に会ったこともない二人に語れることは何もない。それでも、手を合わせているだけでとても心が鎮まるような気がした。  仏前から立ち上がり、じっとこちらを見ていた龍仁に気が付くと、ふいに古い記憶が呼び戻された。ちょうど祖母のことを思い出したからだろう。そして、はっとする。  龍仁は普段、どちらかと言うとおちゃらけている方で、真面目な顔つきをすることの方が少ないように思う。そのせいか気が付かなかったが、今こうして無表情に近い顔をしていると。  あの帰り道でハンカチを差し出して来た男と、驚くほど重なった。 まさかと思い、胸が逸(はや)る。そして、確かめるべく問いを口にした。 「あの、部長。一つお尋ねしたいことがあるのですが」 「ん?なんだ」 「覚えていたらでいいんですが、十六年ぐらい前、電車で泣いている中学生を見かけませんでしたか。それから、その子にハンカチと飴を」  どくどくと高鳴る心音を抑えながら、龍仁の答えを待つと。  彼は考え込む素振りも見せずに、すんなりと言った。 「そんなこともあったな。やっぱりあれは海だったのか。その姿を見た時、まさかと思ったんだ」  答えを聞いた途端に蘇る記憶がある。  思い返せば、面接で会った時の龍仁の態度や、昨日この姿で会った時の反応は、そういうことだったのだ。どうしてもっと早く気が付かなかったのか。こんなに近くにいたのに。  でも、やっと会えたのだ。 「あの時はありがとうございました。部長、何か昔と雰囲気がかなり変わりましたよね」  嬉しさを前面に出そうにも、感動をどう表せばいいのか分からずにそんなことを言う。すると、龍仁は一瞬虚を突かれたような顔をした。 「え、そんなことは……」 「だってほら、あの時はもっとこう、クールな感じだったと言いますか」 「あ、ああ。そうだな。まあこれだけ年を食えば人は変わるだろ」 「それもそうですね」  会えて嬉しいです、と言おうとしたが、たった一度会ったきりのことを言うのはおかしい気がして言葉を呑み込む。龍仁の方が覚えていたことだけでも、嬉しく思わなければ。 「部長、荷物はどこに置けばいいですか?」  龍仁が初恋の相手だと知った途端に意識し始めて、やや早口で言った。 「空いている部屋は結構あるから、どれか好きな場所にしてくれていい。こっちだ」 「あ、はい」  龍仁の後についていきながら、初恋の相手として接するべきか、上司として接するべきか分からなくなっていた。それでも、それは幸せな悩みとも言えて、自然と笑みが浮かんでいた。  
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