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目が覚めた時、離れのかび臭さは消え、土間の踏み固められた土と畳の匂いが混じり合う、懐かしい香りがした。木でできた柱の黒ずみもすっかり無くなって、触れれば力強い幹の鼓動さえ感じ取れそうだった。家を建て替えてから、ずっと隅の方に立て掛けたままだった障子も見当たらない。
気を失っていたらしく、畳に倒れていたチヨの目に入ったのは、つい先ほど開けたばかりの箱だった。脱げそうになっていた足袋のずれを直し、立ち上がろうと置かれた荷物に手をかけた。
離れ全体が生き生きとしていても、チヨは驚かなかった。静かに口を開けた箱の一面が、どれだけ離れが新しくなっていようと、これは夢ではないと教えてくれていた。ここは、チヨが毎日せっせと掃除に励んでいた頃の――包(つつむ)に嫁いだばかりの頃の離れだった。
包はよくできた夫であり、人間だった。家にいる時は専ら本を読むか授業の内容を書き記しているかのどちらかで、きっと生徒にとってはいい先生でもあったのだろう。彼の仕事の邪魔をしたくはなかったのだが、チヨには持ち上がらない荷物を動かしてもらったり、大きな虫に悲鳴を上げて助けに来てもらったりと、日に何度も彼の仕事を中断するのもしばしばだった。包は嫌な顔一つせず、それならばとチヨの家事を手伝い始めた。チヨが千羽の家に慣れ、勝手を掴んでからはチヨを見守るという習慣に変わり、床に臥せる前日まで包は家事をするチヨの横で本を読んでいた。おかげでチヨの記憶の中の包は、冬でもワイシャツ一枚に腕まくりという、教師よりも競り帰りの商売人に近い格好をしていた。
肺に酸素がいっぱいに入っていくのを感じる。畳は新調したばかりだったのだろうか、青々とした藺草を踏むと気分が晴れやかになる。脚を悪くしてからはしばらく履いていなかった足袋も、つま先が歩き方を覚えているように軽い。時間が巻き戻ったことで、チヨの体まで若返ったのだろうか。どこかに置かれていた三面鏡を覗いてみたい気もしたが、目的の箱に辿り着くことを優先することにした。包に箱の置き場所を相談した時、今は使わなくなったからと、離れにしまわれていた大きめの桐箪笥はどうかと提案されたことを思い出したのだ。
包のことを思い出すと、踏ん張りがきかない身体でも歩き続けられる気がした。大丈夫、大丈夫、と言われているようで勇気が出る。チヨは転ばないよう注意を凝らしながら、畳を踏み進めた。
箪笥は、土間から見て奥の隅にあった。その上には何も置かれてはいなかった。チヨが嫁入り道具として母親から渡された箱は一つだけだったから、やはりこの空間は現実である。チヨの開けた箱が、畳の元いた場所にあるだけなのだ。
開けに来た時、もう遠い昔に受け継いだはずの箱は真っ白いままだった。チヨの両手に収まる大きさで、障子紙よりも厚い和紙で覆われているような手触りも変わらなかった。まるでチヨが過ごしてきた時間などほんの一瞬であるかのように、古びた箪笥の上に佇んでいた。
真新しい畳の端は、誰も踏んでいない雪の上を歩くように柔らかだった。チヨは、胸より高い箪笥の天板に手をついた。突っ伏すような姿勢を取ると帯が締まるため、座り込みたい気持ちを抑えて、できるだけ背を伸ばして立った。たとえ見られていないとしても、若い包が過ごすこの場所で年老いた姿を晒したくなかった。
先祖代々のものだという箱を開けようと決めたのは、起きているのが億劫になり、何となく寝込んでいる時間が増えた頃だ。それまで記憶の片隅にあった白い箱の存在が、眠りから目を覚ます度に輪郭を濃くしていた。自分の後は誰に渡すのか、何を入れるべきなのか、未だに答えが出ていなかったにもかかわらず、箱に呼ばれているような気がしたのだ。
箱には、二つの決まりがあった。一生に一度だけ開けること、一番大切なものを入れること。しばらくの間、チヨは悩んだ。呼ばれるがままに離れを訪れても、肝心の入れるものが決まらなかったのだ。この歳になってから入れたいものが増えるとは思えなかったため、今までの人生の中で見つけてきた「入れたいもの」を一つ選択することが必要だった。
昔、包に結婚指輪をもらった時、若かったチヨは勇み足で離れに行った。この銀色に輝く指輪が人生で一番大切なものだと、信じていた。傷一つない指輪は、まるで包の体の一部でもあるかのように、細身のチヨの指にぴたりと寄り添っていた。
ところが、白い箱の蓋に触れてチヨは考え直した。これから先、包からもらった贈り物はどうなるのだろう。その度に箱を開けるわけにはいかない。
一番大切なもの、とチヨは口に出した。チヨにとって、この指輪より大切なものは何なのだろう。それが分からないまま箱を開けるのはやめようと思った。
頭の片隅に小さな疑問を抱きつつ、チヨは日々を過ごしていった。子が産まれ、孫が産まれ、包が亡くなった。
これまでの人生を振り返り、箱に入れるものが決まったのは、盆前の空気が蒸す夕方だった。離れの物を整理しようと、チヨは離れにやってきていた。今思えば、包に呼ばれていたのかもしれない。
開けた引き戸から風が入ってくる。セミの鳴き声も昼に比べて小さくなり、うだるような暑さも和らいできた。チヨは目をつむる。包はもう夕飯を済ませただろうか。
初めて箱について話した時、大事な箱なんだね、と包が笑っていたことを思い出す。若い頃から目尻に刻まれていた笑いじわがくっきり見えて、歳を取ったらこれが本物のしわになるんだろうと思ったものだ。
そういえば、チヨは包のことを思い出す時はいつもこうして目を閉じる。暗くて何も見えないスクリーンいっぱいに、包と過ごした時間を映し出せるように。
「いちばんたいせつなもの」
チヨははっとして目を開いた。平仮名に分解できるくらい、口をいっぱいに動かして声に出す。もう結婚当初ほどの輝きはない指輪を撫でる。
「いちばん、たいせつなもの。そうよ。いちばん、」
いちばん、と声に出すと喉元から空気が漏れていくかのように苦しくなる。胸が詰まり、畳と廊下の板との隙間に膝をつく。
気づいてしまった。チヨにとっての一番は、指輪を箱に入れたいと思ったあの日からずっと同じだった。
泣きながら、片っ端から包の箪笥を開けた。離れ中をひっくり返す勢いで、包の持ち物をかき集めた。
着る主をなくしたジャケットは箪笥の奥に、丁寧に畳んでしまっておいた。歳を取ってからは緩くなっていたスラックスも、年季の入ったぴかぴかの革靴も、包の頭の形にぴったりだった帽子も、昔のままだった。お気に入りだった万年筆も、結婚する前に止めたというパイプも、家の中で羽織っていた掛物も、何もかもを引っ張り出した。
帽子、その下にシャツ、スラックスと並べていくと、紳士服売り場のマネキンが品よく装っているように見えた。その周りに漁った物を並べると、在りし日の包が見えた。
「包さん」
チヨの隣を歩いていた姿が脳裏に浮かぶ。愛しい名前を口にするだけで、導かれたばかりの答えは確信に変わった。チヨが愛しいと思うのは、指輪もこの持ち物一つひとつも変わらない。本当に箱に入れたかったものは、包との思い出だったのだ。
形があるわけではないから、箱に入れられるわけではない。それでも、チヨにとっての一番大切なものは包と過ごした日々なのだ。
翌朝、チヨは着物に身を包み、綺麗に化粧をして離れにやってきた。まだ早朝だというのに日は高く、金でできた引き戸はすでに人肌まで温まっていた。
室内は年季の入ったもの特有の古びた匂いで満たされていた。時間の流れも止まっているような静まり具合だった。踏み固められて砂利一つない土間で下駄を脱ぎ、チヨは箱を探した。
嫁入り当時を思い出しながら歩き回り、辿り着いたのは、畳の端に置かれた古箪笥の上だった。チヨの記憶の通りの場所で、箱は腰を据えてずっとチヨのことを待っていた。あっと声を出したが、たくさんの物に反射して、やがてその音は吸い込まれていく。
「あった……」
箱のことも自分のことを忘れているのではないかと思うくらいの長い時間、チヨは箱を放っておいた。歳を取ったことで置いた場所を忘れてしまったのではないかとか、形のないものを本当に入れられるのだろうかとか、探しながらチヨの頭には不安もよぎった。白い箱は、そんな考えは無駄だと言わんばかりにそこにいた。
「お久しぶりね。この歳になってやっとね、あなたに入れたいものを見つけたの。ようやくあなたを開けてあげられるわ」
母親に渡された時と同じように、手によく馴染む。時間は箱にとって無関係であるとでも言うのだろうか、表面を包む和紙のような素材は毛羽立ちもせず真っ白なままだ。
前に箱を開けたのは、チヨの父親ではない。チヨの成長の途中、大切なものを見定める前に亡くなってしまったのだ。箱のことを聞いていた母親は、父親から言われた通りにチヨに手渡した。だから、チヨは自分の前に箱を開けた人物を知らない。祖父か、もっと前のご先祖か、名前も知らない人がどんなものを入れたのか、緊張しながら箱を撫でた。
「……でも、開けないと」
一回り大きな蓋に手をかける。物音一つない空気に圧力がかけられているように、決心がつかなかった。しかし、開ければ思い出を入れる方法が分かるかもしれないと、チヨは一思いに蓋を取り去った。
「きゃっ」
たちまち光が溢れ、辺りを覆う。蛍光灯よりもずっと明るくて、目を開けていられなかった。よろけた足元を庇いきれず、その場に倒れ込んだ。
畳と同じ高さで恐る恐る目蓋を開くと、――この場所に辿り着いていた。
箪笥に寄りかかって休憩したチヨは、離れの外に出ることを思い立った。この場所が過去に戻っているとしたら、外に出れば包に会えるかもしれない。何せ、箱に詰めたのはありったけの包との思い出なのだ。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、チヨは元来た土間の上がり框に腰かけた。
「うわっ、びっくりした」
「え?」
下駄を探していた頭上で声がする。顔を上げると、そこには若い青年が立っていた。
「おはようございます。チヨのご親戚の方ですか?」
歳の割に目立つ目尻のしわ。すぐおじいちゃんになっちゃうなと、からかうチヨにまた笑う顔。チヨが忘れるはずもなかった。
「……包、さん……」
「あれ、どこかでお会いしてましたっけ?すみません、式の時は緊張してまして……。チヨをお呼びしますね」
困ったように包は頭をかいた。このときのチヨはまだ十代も後半だったから、あなたの妻ですと名乗り出るわけにもいかない。チヨは返答に詰まった。
「い、いいえ、いいんです。少しだけ、寄らせていただいただけですから」
足が悪くて、長い間立っていられないだけなんです。そう言って着物の上から足をさすって見せると、包は大層心配がった。
「休んでいかれたらいかがですか。うちはチヨと二人ですし、お気遣いさせることもありません」
大丈夫ですと答えれば、包との時間は終わってしまう。目の前にいるのは、とうに死んでしまった人間なのだ。
「……では、このおばあちゃんのお話にお付き合いくださいますか?」
箱はチヨの思い出をその身にしまい込んだ代わりに、包と過ごせる場所にもう一度送ってくれたのだろう。だとすれば、これは生きているうちに包といられる最後の時間だと、チヨは大胆にも若い夫を引き留めた。
目の前の包はきょとんとしていた。まだ若い彼の笑いじわはまだまだ掘りが浅く、身丈ぴったりのワイシャツの腕をまくっていた。
「……チヨでなく、僕でいいんでしょうか?」
「ええ、いいんです。チヨさんはもう……ご存知ですから」
二人の会話が噛み合わなくとも良かった。包が自分をチヨだと認識していなくとも良かった。むしろ、妻が年老いた姿だと知られなくて好都合だった。この頃のチヨは、肌の色に合わない白粉を躍起になって顔に押し付ける、未熟な恋をする少女だった。綺麗でいようとしているところに、老婆の姿を知られるのは女心が許さなかった。
「では……うかがいましょう」
ワイシャツの襟を正す包の表情は真剣だった。チヨは、そんな包が好きだった。得体の知れない人間のことを疑う前に手を差し伸べる、あの時代にだってそうはいなかったお人好し。
チヨは口を開いた。何か言おうと、息を吸った。しかし、何も言い出せなかった。
「……困ったわ。あんなにお話したかったのに、言葉が、出ないの……」
箱がくれた時間は残されているのだろうか。こんなことになるならば、包に言いたいことを考えてくるべきだった。
愛していると言えればどんなに良かっただろう。あなたのことを、こんな歳になっても愛していると。
あなたが死んでしまった今でさえ、愛しく思わない日はないと。
チヨは唇を噛みしめた。それ以外に伝えたい思いがないことに気づく。
過去の包とチヨの暮らしを守るため、包を混乱させないため。理由はいくらでもあった。しかし、本当にチヨがそう切り出せなかったのは、自分のことを妻の未来の姿だと知った包に、怪訝そうな表情を向けられるのが怖かったからだ。チヨは初めて、老いを恐ろしいと思った。
「私ってば、あなたがいないと怖がりで駄目ね……」
「あなた、……旦那さんですか」
「あ、ええ、もう亡くなってしまったんですけれど。とても、素敵な方で……」
「分かります、おばあちゃんの顔がそう言ってますよ」
「まっ」
チヨの顔が火照る。無意識のうちに笑みをこぼしていたらしい。
「恥ずかしいわ」
「良いじゃないですか。僕も、チヨとそんな風になれたらいいな」
包のまなじりが下がる。チヨは間髪入れずにまっすぐ答えた。
「なれますよ、こんなおばあちゃんの話に付き合ってくださる旦那様だもの。チヨさんはきっと幸せに暮らせるわ」
「あ、ありがとうございます。僕も、おばあちゃんの旦那さんみたいに、愛する人を幸せにします」
「ええ、きっと、……きっと大丈夫ですよ」
愛する人に愛される幸せを、チヨは噛みしめるように味わった。
はにかむ包につられてチヨも励ますように笑う。何を話してもいいし、何も話さなくともよかった。そんな包との時間がもう少しだけ続いてほしいと思った時、畳のあたりがにわかに光り始めた。
「何だろう、どこかから漏れてるのかな」
来た時よりも細い光だった。もうすぐこの魔法のような効果が切れるという、箱からの合図のようだった。
包が光の中で手を伸ばした先には、蓋のない白い箱があった。閉めろということなのだろう。
ずっとこのままいられればいいのかもしれないが、生きているうちにもう一度会えただけで幸せだった。
「……そう、そういうことなのね。ちゃんと、自分で終わらせないとね」
「おばあちゃん?」
チヨはその箱を受け取り、傍らに落ちていた蓋を手探りで拾った。そして、迷いなく、元の通り閉めた。初めて見た箱の中身は、空っぽだった。
「ご先祖様も、同じだったのかしらね」
「おばあちゃん、その箱は、」
「ええ、私の物なの。包さん、こんなおばあちゃんの話し相手になってくれてありがとうございました。チヨさんと、お幸せにね」
今度は離れ全体が、目映いくらいに輝き出した。チヨの理解は正しかった。
光の始まりは見えなくとも、これで終わりだと分かった。この時間か、チヨの人生かは、どちらでも変わりないことだ。
「おばあちゃん!」
「私、とても……とても、幸せだったわ。ありがとう、包さん。さようなら」
薄くなる体が光に包まれる前、チヨは思い出した。
あの箱の白は、チヨが遠い昔に着た白無垢と同じ色だった。
離れの引き戸を開け放った瞬間、山谷畳(やまたにたたむ)は祖母を見つけた。予感は的中した。
「ばあちゃん!」
土間の上がり框にほど近い、ちょうど板になっている廊下に倒れていた。身に着けた荷物を放り投げ、畳は祖母のもとに駆け寄った。抱き起こしたその身体は冷たく、余計に畳を焦らせる。
「母さん、救急車! 早く!」
力の限り叫んで、そのまま祖母が目覚めてくれやしないかとすがるような思いで叫ぶ。家の方からバタバタと廊下を走る音がする。母はもうすぐやってきてくれるはずだ。畳は祖母を抱き締めながら、繋がらない点を拾い集めるように視線をあちこち動かした。
投げ捨てたリュックサックからは、分厚い本がのぞいていた。しらみつぶしに大学の図書館で資料を漁り、やっとのことで祖母が口にする〈伝統〉のヒントになりそうな文献を見つけたのだ。
母から聞いたことがあった。祖母の家では臨終を迎える際、〈箱〉とやらに大切にしているものを入れる風習があるのだという。それだけであれば畳も調べるには及ばなかったのだが、母はこう続けた。
「あの箱ね、昔、壊そうとした人がいるみたい。どうしてだか分からないけど、あんまりいい物じゃないのかもしれないわね」
一族に伝わるものを壊すには、それなりの理由があるはずだ。祖母も身体を悪くして数年になり、人生の終わりを自覚するのもそう遠くない未来かもしれない。祖母が箱を開ける前に、言い伝えの綻びを見つけておきたかった。
『折紙町伝統行事』と背表紙に金の箔押しで記された本は、辞書のように巻末に索引があった。折紙町というのは祖母の出身で、この家からは隣町に当たる。畳はサ行の索引に目をやり、それから祖母の旧姓があるア行までページを戻した。
【麻漉(あさずき)】の項目はすぐに見つかり、畳は食い入るように文章を追った。そして、嫌な予感を振り払うようにこの家へと急ぎやってきたのである。
祖母が倒れていたすぐそばに、箱が転がっていた。化粧までした着物姿の祖母と、白い箱を見比べる。恐らく祖母は開けたのだろう。初めて見た白い箱は小ぶりながら、何代もの人間に引き継がれてきた時間の重みをその身に宿していた。
「おばあちゃん!」
開け放ったままだった引き戸のひさしにつまずきながら、母が飛び込んできた。
「畳、救急車、救急車ね、すぐ来てくれるって、」
肩を震わせながら、畳が祖母を抱きかかえる側に膝を下ろした。もう間に合わないということを言い換える適当な言葉が見つからず、畳は黙って頷いた。察したように、母の目からは涙があふれてくる。
「……きっと開けたのね、おばあちゃん」
「……うん」
「綺麗ね。畳、着物のおばあちゃん見るの、初めてなんじゃない?」
畳の前で嗚咽を漏らすまいとしているのか、気丈に話し続ける母は強い人だと思った。
「うん」
母もあれから調べたのだろうか。畳は何度も読んだ文章を思い返した。
――この風習は、鋭利な武器を持たない庶民たちが、命に代えるものを手放すことによって精神だけでも自らの命の終わりを決めようとしたことに由来する、尊厳死の表現方法と考えられている。また、開けられるのは死期を悟った後であるのが関係していると思われるが、箱に物を入れた者は間を置かず死亡することが多く、俗に「死神の箱」と呼ばれ、風習そのものをなくそうとする動きもあった。
母の母親である祖母もまた、強い人間だ。一番大切なものを箱に入れてなお、安らかな表情を浮かべている。
「母さんは、ばあちゃんに似たんだね」
「そうよ、若い頃のおばあちゃん、すっごく怖かったんだから」
祖母の身一つの旅立ちを、母との会話で見送る。
救急車のサイレンが近づく。〈千羽チヨ〉という人間の抜け殻を、畳はもう一度抱き締めた。
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