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嘘をつくことが罪になってから、もう2年が経った。
いまや国民は一人残らず手のひらにチップを埋め込まれており、嘘をついた途端に脈拍の変化を読み取られ魔法のようにパトカーが飛んでくるのだ。
そんな窮屈な生活に当惑したのは意外にも最初だけで、僕らみたいな一般人は一度慣れてしまえばそこまで困ることはなかった。それどころか、世界は前よりずっと回りやすくなったようにすら思う。
装飾は減って、世界はシンプルになった。
詐欺は減って、悪意が減った。
無駄な気の使い合いが減って、疲労が減った。
でも結局のところ、人間は嘘をつかないと何かを守れない生き物だ。
「ただいま」
暖かい空気のカーテンをくぐって、僕は嗅ぎなれた香りのする明るい部屋に帰宅する。
嘘を禁じられたこの世界でも、嘘をついてまで何かを守りたい人間のために"嘘をつく権利"がネットオークションで売りに出されることが時々あった。
それは例えば政治家が自分の名誉を守るためであったりとか、マジシャンが観客を楽しませるためであったりする。
職業として嘘をつかなければいけない人間はともかくとして、それ以外にどんな人が嘘をつく権利を求めているのかはよく知らない。ただ事実として、大金を積んでまでその権利を求める人が少なからずいることは確かだった。そして僕はそういった人々を相手にして勝利しなければならなかった。
「一度きりの使い捨てのくせに、高い買い物だな」
末端価格17万円少々。苦労の末手にいれた”嘘をつく権利書”を鞄の底に隠したまま、僕は電気のついているリビングに入る。
「おかえり」
ベッドから身を起こして、彼女が待っていた。
「寝てていいよ」
「今日は平気なの」
パトカーのサイレンが聞こえてこないということは、彼女の言葉が嘘ではないということを意味している。僕は小さく息をつく。
彼女のベッドの横に腰を下ろした僕は、早速コンビニで買ってきた弁当を温めもせずに開く。彼女の目の前に陣取ったから、彼女はきっと僕が邪魔でテレビが見えなくなっていることだろう。
「冷たいと美味しくないでしょ」
「美味しくない」
「じゃあ、なんで温めないの?」
君の側に一秒でも長くいたいから、とは決して言わない。
嘘をついてはいけないという法律はできたが、ごまかしてはいけないという法律はまだないからだ。
それにそんな大層なセリフを吐くなら、将来への心配もなく夜景を眺めながらコース料理でも食べてるような時が良かった。
二人でただ黙っていると、彼女が不意に呟く。
「私は、君には幸せでいて欲しいのにな」
飲み物もなしに弁当を食べ進めていたせいか、硬い米粒に僕はむせる。最近はこんな会話をすることがいやに増えた。
「私のことより、君自身のこともよく考えて欲しいの」
せき込んだ呼吸を元通りにするだけの時間が経っても、僕はまだ答えを返さない。
黙ったまま、冷たいフライの衣をもてあそんで白米の上に広げる。
「もし私が居なくなったら、一年だけ独身でいて。その後はさっさと良い人を見つけて幸せになるべし」
「縁起でもないことを」
「でも約束」
僕と彼女は目を合わせられない。これが全て彼女の本心なんだと思うと、なおさらだ。
いつまでもうつむいたままではいけないと僕も理解しているはずだった。
僕は床に置かれた鞄に一瞥をくれる。
そう、あれを使うならこういう時なんだ。
僕がつきたい嘘は一つしかない。私のことはいいから幸せになって、という彼女の切なる願いに、嘘という裏切りで応えることだ。
ああ、君がいなくても幸せになってやるさ、と。
そう答えることで、きっと彼女は実体のない満足感を得るのだろう。
そうして彼女が最後に抱えた重い未練をそっと下ろしてやるのが、僕にできる最善の策だと思った。
そんな儚い嘘をつくためだけに、僕は嘘をつく権利書を求めたのだ。
彼女の頭を僕の胸に寄せて、何度も何度も最後の嘘を伝えようとした。
でも結局、その夜は心を決められなかった。
嘘をついたその先にある終わりを、正面から見たくなかったからかもしれない。
次の晩も、最後の晩も、僕は与えられた権利を行使することはなかった。
一度だけなら嘘をつけたのに、そのたった一度の嘘をつけなかった。
僕に許されていたはずの嘘が、誰かを守るための道具が、いざ手にしてみればなんと脆いことか。こんなものでいったい何を守れというのか。
一人きりになった僕は、紙一枚のその頼りなさだけを抱えて生きていくことになった。
一年後、僕は一人ぼっちにも慣れてきた部屋で手の中の権利書をただ眺めている。
彼女に押し付けられた約束のうち、一年間独身でいるという部分に関しては苦もなく達成できたのだが、問題はその先だった。
彼女の望みを叶えたいという気持ちはあった。だがそれを達成するためには、嘘をついてまで守る価値が彼女以上にある人間を探さなければならないということでもある。
「は…」
溜息にも乾いた笑いにも聞こえる息がこぼれる。
まさに、気の遠くなるような話だ。
たった一度の嘘をつく権利。それは今すぐにでも使えるようでいて、実際は使うほどの価値があるものを見つけることの方が遥かな難題のように感じられた。
「…この世界に、嘘をつきたい理由はもうないよ」
諦めの言葉が口をついた時だった。
「約束、一応覚えててくれたんだね」
「…は?」
僕は最初それが幻聴だと思った。
次の瞬間には、幻覚を見ているんだと思った。
「よっ」
弱弱しさのかけらもない元気にあふれた姿で、彼女がそこに立っていた。
「な、なんで」
「久しぶり」
僕が続く言葉を紡げないでいると、早く種明かしをしたくてたまらないのかせっかちに彼女が語り始める。
「これ、天国で神様に嘘をついてきた。私はまだ死んでないですって」
そこには”神様に嘘をつく権利書”と書いてあった。
「は、はは」
その言葉のあまりの唐突さとばかばかしさに、僕はつい乾いた笑いを漏らす。
神様なら嘘だろうが何だろうが全てお見通しだろうに、何の冗談でこんなものを作ったというのか。
もしかして、神様も嘘のなさすぎる世界に退屈してしまったのだろうか。
「いいでしょ。天国で友達になった人にもらったんだ」
最後まで使えなかった僕の権利書とは対照的に、彼女の持っている紙片は役目を果たしたという達成感を帯びているような気さえする。
彼女はそれを感慨深そうに見つめながら言葉を続けた。
「天国に着いたらさ、生前に嘘の権利書を買えなかったっていう人と友達になったの。その人はね、生活を切り詰めてかき集めたなけなしの16万円で落札しようとしたのに、寸前で17万円払うって人が出てきて買えなかったんだって」
現実感を取り戻せない中で聞いた17万円という値段に僕は引っかかった。まさかとは思うが、その17万円払った人間というのは僕のことだろうか。
でも万が一それが僕じゃなかったとしても、仕組みとしてはどこかで同じことが起こっていたはずだ。
限りあるものを誰かが買えば、誰かは買えなくなる。
そう考えると、本当にそれが僕であるかどうかは大した問題じゃないのかもしれない。
「でもその人、生前に権利書を手に入れられなかったことに感謝してたんだよ。もし手に入れてたら、家族に病気のことをごまかしたまま一人で死ぬつもりだったみたい。だから、その機会を奪ってくれた君のためにこれを使ってって」
空を見上げながら語る彼女に、僕は何も声を掛けられなかった。
「何だよ…それ」
彼女を守るための嘘がつけなかった僕と、僕のために嘘をついてくれた彼女。
世界に嘘をつく勇気がなかった僕と、神様に嘘をつく勇気があった彼女。
嘘を禁じられるまで気付かなかったが、僕は上手に嘘をつけるほど器用じゃないみたいだ。
ああ、やっぱり慣れないことはするもんじゃない。
嘘をつくことにとらわれすぎて、本当のことを伝えるだけでこんなにも時間がかかってしまったのか。
彼女が静かに僕の言葉を待っている。
だから僕は、これを最後の嘘とするためにこう答えなきゃいけない気がした。
「君がいなくたって、僕は一人で生きていく自信があったさ」
僕と彼女の手のひらから、もう価値の無くなった紙切れが滑り落ちた。
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