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突然の出来事にも、フレデリックは動じなかった。殴りかかる若い男の拳を片手で受け止める。
僅かに横へと移動したフレデリックが勢いを利用して背中を押せば、若い男はヴァレリーと辰巳の座るソファの方へとすっ飛んできた。いやむしろ、フレデリックがこちらに飛ばしたというべきか。
「っおい…!」
「おっと」
辰巳とヴァレリー、二人の口から零れ落ちる声が綺麗にハモる。そして、二人が足を出すのも同時だった。テーブルに乗り上がり、もんどりうって転がる若い男の背中を二つの靴が受け止める。その様子に苦笑を漏らしたのはフレデリックだ。
「おやおや。ご主人様に足蹴にされるなんて可哀相に…。盛大に転ばせてしまってごめんね?」
口先だけの謝罪をしてみせるフレデリックに、男が勢いよく立ち上がる。だが、その腕はあっさりとヴァレリーに捉えられていた。
「イヴ。ただいまは?」
「……ただいま」
「良い子だ。けど、俺の客に殴りかかるのは良くないな」
ごめんなさいと、蚊の鳴くような声が辰巳の耳にも届いた。部屋に飛び込んできたときとは一変、急に大人しくなった男にヴァレリーがそこに立っていろと命じる。
「驚かせて悪かったなタツミ。あれがイヴォン。俺の、…まぁペットだ」
「イヴォン…って、アンダーボスじゃねぇのか?」
「ああ、一応表向きはそうなってるな。事実コルスでこいつに喧嘩で勝てる奴もいないしな」
俺以外は…と、そう言って可笑しそうに笑うヴァレリーに溜息を吐いて、辰巳はすぐ横に立つイヴォンを見上げる。それに気付いたようにヴァレリーが辰巳の肩を引き寄せた。
「っおい…いちいち近ぇんだよお前は…!」
辰巳が肘で押し返そうとも、ヴァレリーは気にした様子もない。身を乗り出すように辰巳の肩へと凭れ掛かり、すぐ横に立つイヴォンを一緒になって見上げる。
「イヴ。こいつはフレッドの連れで、タツミというんだ。良い男だと思わないか?」
「……別に。つか嫌がられてんだろヴァル」
「馬鹿だなぁ、日本人はシャイなんだよ」
「あっそ。つかなんでヴァルが英語で話してやってんの。そいつフランス語できないの?」
イヴォンの深い緑色の瞳に嘲るような光が浮かぶのが見えて、辰巳はガシガシと頭を掻いた。
「ああそうだ。フランス語は得意じゃねぇんだ」
「英語も発音変だけど?」
すかさず突っ込んでくるイヴォンに、辰巳は思わず吹き出した。確かに、言葉など通じればそれでいいと思っている辰巳は発音などに拘ったこともなければ気にしたこともない。妙なところを気にするものだとイヴォンをまじまじと見ていれば、ヴァレリーが横槍を入れた。
「それよりイヴ、俺の客に自己紹介しろ」
「何で」
「そりゃお前、これからフレッドたちと組むからな」
「イヴォン・リクール。年は十八。好きなものはヴァル。嫌いなものはそこの金髪と弟の赤毛。今はヴァルのペットだけど、そのうち付き合う予定」
イヴォンの自己紹介に、辰巳が唖然としたことは言うまでもなかった。その横で、ヴァレリーが爆笑する。
「お前が言わせてんじゃねぇのかあれ」
「おいおいタツミ、そりゃあイヴが可哀相だろ」
「マジってか…」
いったい幾つ歳の差があるんだと、呆然と呟いた辰巳は、だが自身が嫉妬の視線に曝されているという事に気づいていなかった。
「それで? おっさんいつまでヴァルにくっついてるつもり?」
「あ?」
「ヴァルから離れろって言ってんの」
離れろと言われても…と、辰巳はヴァレリーを見つめた。すぐ間近にある端正な顔は、フレデリックとは対極の男らしさがある。
――睫毛なげぇな…。
思わずそんなことを思いながら、ダメ元でヴァレリーの躰を肘で押しかえす。
「離れろって言ってんだろ、ちったぁ坊主に気ぃ遣ってやったらどうだ」
「ペットに気を遣う飼い主がいるか?」
きっぱりと言われてしまえば言い返す隙もない。ヴァレリーに離す気がないと悟った辰巳はやれやれとイヴォンを見遣った。
「悪ぃな、俺の腕っぷしじゃ坊主の飼い主に勝てねぇんだ」
「…………ツク……」
ぼそりと零れ落ちたイヴァンの声が聞き取れない。
「あ?」
「ムカツクって言ったんだよ!」
「お、おう。そりゃあ悪かったな」
子供の癇癪に腹を立てるほど、辰巳は若くなかった。だがしかし、いくらイヴォンにムカつくと言われても辰巳にはどうしてやることも出来ないのである。ヴァレリーもヴァレリーで離れる気配もなく、辰巳が溜息を吐いた時だった。ノックとともに先刻出ていった男が酒とつまみの乗ったワゴンを押して部屋へと入ってくる。
「お待たせいたしました、トラントゥール様」
「適当に置いておけ。給仕は要らん」
「かしこまりました」
丁寧に頭を下げて退出しようとする男を、だがヴァレリーが呼び止める。
男は直立不動の姿勢でヴァレリーの言葉を待った。
「ファミリーに通告を出せ。俺がいいと言うまでニースからの逃亡者をすべて監視しろ。問題を起こした奴は捕獲してどこかにまとめて放り込んでおけ。ただし殺すなよ」
「はい」
「お前たちが手を出すのも駄目だ。事がすべて片付いたら連中は全員ニースに引き渡すからな」
「はい」
「これから俺たちファミリーはイタリアを相手にニースとの共闘に入る。久し振りの祭りだ。存分に楽しめと伝えておけ」
「承知しました」
今度こそ丁寧に頭を下げて部屋を出ていく男を見遣った辰巳の耳に、フレデリックの声が流れ込んだ。
「ヴァレリー…」
「辛気臭い声を出すなよフレッド。俺は報酬に見合った仕事をするだけだ。なあタツミ?」
「俺に振るんじゃねぇよ阿呆」
「お前が慰めてやればフレッドは元気になるだろう?」
「だったらとっととこの腕離しやがれ」
ようやく解放されるきっかけが出来たと辰巳が喜んだのもつかの間、ヴァレリーは僅かに考えるそぶりを見せてぬけぬけと宣った。
「そうだなぁ、フレッドの代わりにお前が俺に謝意を表したら離してやってもいいぞ?」
「はあ?」
「ほら、俺の頬にキスのひとつでもしてみせろ」
「…冗談じゃねぇぞ」
「なに、挨拶と変わらん。それとも東洋人は挨拶ごときに頬を染めるのか?」
「っ…てめぇな」
明らかに揶揄うつもりのヴァレリーを間近に睨み、辰巳は無意識にフレデリックを見た。
挨拶。と言われれば確かに挨拶程度のことではある。が、こうしてわざわざ求められるのはどうにも違う気がしてならない辰巳である。
「ったく、どうしようもねぇ野郎だな」
「お前のキスひとつで俺は満足するし、お前も解放される。万々歳だろう?」
「男にキスする趣味なんざねぇんだよクソが」
吐き捨てるように呟いて、辰巳はすぐそばにあるヴァレリーの頬へと唇を寄せた。もちろん、こちらを向かないように手を添えることは忘れずに。
それは色気もへったくれもない口づけではあったが、ヴァレリーは可笑しそうに笑って約束通り辰巳を解放した。
ようやく自由の身になった辰巳が立ち上がれば、突き刺すようなイヴォンの視線にぶち当たる。
「おいおい坊主、今の話聞いてただろ。そんなに睨むんじゃねぇよ」
「あんたは、ニースとは関係ないよな」
「ああ? ねぇよ」
答えた瞬間、フレデリックが辰巳の名を呼ぶのと、イヴォンの右手が脇腹にめり込むのは同時だった。
「ッ!! …ってぇなクソガキッ」
日本語で吐き捨てながら脇腹を押さえる辰巳の肩を、風が掠める。それが、フレデリックである事はすぐに分かった。
「フレッド」
辰巳の声に、ピタリとフレデリックの動きが止まる。イヴォンの喉元で止まったフレデリックの手を、辰巳は安堵の溜息とともに掴んだ。腕を降ろしてやりながらフレデリックの腰へと腕を回す。それでも動こうとしないフレデリックとイヴォンの間に辰巳は躰を割り込ませた。
「おい坊主、お前少し離れろ」
「っ…ふざけんな、なんで止めたんだよ」
悔しそうなその声がただの強がりだと告げていた。実力差を認めるには、確かにイヴォンはまだ若い。仕方がないとばかりに辰巳はヴァレリーを振り返る。
「おいヴァレリー、飼い主だってんならこの坊主さがらせろ。危なくて仕方がねぇ」
辰巳が言えば、ヴァレリーは肩を竦めてイヴォンを呼んだ。
「イヴ」
「……嫌だ」
「イヴ、来い」
「ッ……」
「聞こえなかったのか?」
ほんの僅かに低められたヴァレリーの声に、ようやくイヴォンが動くのを確認して辰巳は小さく息を吐いた。
「どうして…?」
「ああ?」
ぽつりと零れ落ちたフレデリックの小さな声。
「どうしてキミは…」
「ガキに一発殴られるくらいどってことねぇだろ。それより、お前は良い嫁になったよ。なぁフレッド」
「キミは狡い…」
「それでいい。あんなガキのことより、そうやって俺のこと考えてろ、な?」
ごつりと、フレデリックの額に辰巳のそれが重なる。すぐそこにある碧い瞳を覗き込んで辰巳は笑った。
「俺がこんな事してやんのはお前だけだ」
「辰巳…」
フレデリックを抱いたまま、辰巳はようやくヴァレリーとイヴォンを振り返った。
ゆったりとソファに背を預けたヴァレリーは、面白そうにこちらを見ていた。その足元に、イヴォンが大人しく座り込んでいる。
その姿に、辰巳はなんとなく二人の関係性を察した。だがしかし、もう少し躾はしておけとそう思う。骨に異常はないだろうが、随分と重い拳に呆れ果てる。
「タツミ。俺は改めてお前に謝罪をしなければならないようだ」
「あん?」
突然何を言い出すのかと、フレデリックとソファに腰を下ろしながら辰巳はヴァレリーを胡乱げに見た。
「意味が分からねぇな」
「いやなに、お前を子猫だペットだと揶揄ったことを謝りたいと思ってな」
「はぁん? 別に気にしちゃいねぇよ。さっきそこの坊主に言った通り、腕っぷしじゃ俺はあんたらの足元にも及ばねぇからな」
「腹は大丈夫か?」
「いくらなんでも十八やそこいらのガキに内蔵潰されるほどヤワじゃねぇよ」
未だ続く鈍い痛みを思えば痣くらいは残るかもしれないが、だからといって子供を相手に殴り返すのも大人げがない。と、随分と考えが変わったものだと不覚にも辰巳は自覚することとなった。
「酒を用意しろ」
イヴォンの頭をくしゃくしゃと掻き混ぜながら、ヴァレリーが短く告げる。
「また飲むのかよ」
「そのためにタツミを連れてきたんだ。お前が暴れたおかげで汚れたテーブルも拭けよ」
「分かってるよ…!」
素直とは程遠い態度ではあるが、イヴォンはヴァレリーの言うことには従うらしい。時折り辰巳やフレデリックを睨みながらもイヴォンはクロスで拭いたテーブルの上に酒やらつまみやらを手際よく並べた。
「これでいいかよ」
「良い子だイヴ。俺の隣に来い」
ぽんぽんとソファを叩くヴァレリーの姿は、まさにペットに対するそれのような気安さだ。
――もしくは完全にガキ扱いか…。っても、あの年齢差じゃあな…。
四十九のヴァレリーと十八だというイヴォンの年齢差は、親子と言ってもおかしくない。辰巳にも日本に歳の差のある恋人を持つ知人が居るが、それでも十五かそこらの差だったと記憶していた。
十八にもなればフランスでは成人と見なされるはずだが、それにしてもペットのように扱う子供をアンダーボスに据えているというのが辰巳には理解できなかった。
「その…さっきは悪かったなおっさん…」
「あ?」
「殴っちまったから…。あと……おっさんそこの金髪止めてくれたじゃん…」
「あー…別に構わねぇよ」
どう足掻いてもフレデリックだけは名前で呼ぶ気がないのか、頑なに金髪と言い続けるあたりがどこか微笑ましく感じる。だがしかし、当のフレデリックはといえば、イヴォンの発言に不満を募らせていたのである。
「いい加減耐えられない…」
「ああ?」
「いいかいイヴォン。別に僕をどう呼ぼうと勝手だけれど、辰巳をおっさん呼ばわりするのは許せないよ!」
子供を相手に何を言い出すのかと、辰巳が呆れた事は言うまでもない。額へと手を遣って項垂れる辰巳の姿にヴァレリーが笑う。
「イヴ、謝った方が良いぞ。フレッドとタツミは同じ年らしいからな」
「だから何。別に金髪の事なんてどうでもいいし」
「忘れたのか? フレッドはおじさん呼ばわりされると見境がなくなる」
「そういうの、年甲斐もないって言うんじゃないの」
ビキリと、フレデリックの血管が切れる音を辰巳は聞いた気がした。
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