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act.04
さんざん酒を飲んで眠りについた辰巳が目を覚ましたのは、とうに昼を過ぎた時間の事だった。ごそりと寝返りを打てば見慣れない天井が目に入る。
「辰巳…?」
「あ?」
上向いた辰巳の胸に、こてんと金色の頭が乗る。確かめるように頬を擦り寄せるフレデリックは少し掠れた声を出した。
「おはよう」
「ああ」
ヴァレリーが辰巳とフレデリックに用意した部屋は、メインルームと同じ階層にあるゲストルームの一室だった。ゲストルームといってもヴァレリーの使用しているフロアとは独立していて、そのまま廊下に出ることが出来る。内風呂とカウンターバーを備えたその部屋を、コルス島に滞在する間使っていていいと言っていた。
寝心地の良い寝台でしばらく天井を見上げていた辰巳が、いつまでも退く気配のないフレデリックにしびれを切らしたことは言うまでもない。
「いつまでそうやってんだ」
「辰巳がそう言うまで」
悪びれもせずに囁いたフレデリックは、辰巳の唇に口づけを落として寝台を降りた。テーブルの上の煙草を一本点けて、辰巳の口許へと運ぶ。
「コーヒーでいいかい?」
「ああ」
辰巳はあくびを噛み殺しながら返事をして寝台を降りた。昨晩は、さすがに飲み過ぎた気がする。
フレデリックが言っていた通り、ヴァレリーに付き合わされた辰巳は朝まで酒を飲んでいた。早い時間に追い出されたのは、フレデリックとひと悶着起こしかけたイヴォンである。
子供相手に何をやっているのかと思わなくはないが、フレデリックのナルシシストっぷりはもはや病気の域だ。おっさんと呼ばれた辰巳が気にしなくとも、同じ年齢の自分が言われているような気になるというのだからどうしようもない。
結局、昨晩はヴァレリーがイヴォンを追い出して事なきを得たが、一晩でイヴォンが態度を改めるとは思えない。ヴァレリーとの交渉が上手くいったというのに、先が思いやられる出だしである。
それにしてもヴァレリーとイヴォンの関係は、妙なものだと辰巳は思わずにいられなかった。男同士だからなどというものではない。あの二人の場合、それ以前の話なのだ。
「あの二人は、付き合ってんのか?」
「さあ。ヴァレリーはペットだと言って譲らないからなんとも言えないね」
「坊主の方の片思いってヤツか」
「イヴォンが本気かどうかは分からないけれど、躰の関係はないんじゃないかな」
色気がなさすぎると、フレデリックはそう言って笑った。ヴァレリーに抱かれているとすれば、もう少し色気が出てもおかしくないだろうというのだ。
「どう見ても親子にしか見えねぇもんなぁ」
「それは、彼らの前では禁句だよ、辰巳」
「気にしてんのかよ?」
「イヴォンはあの通りだからね、手が付けられなくなる。ヴァレリーはまぁ、そこまでではないけど気にしてはいるみたいだから一応、ね」
フレデリックの話を聞けば結局は両思いなのではないかと思う辰巳ではあるが、年の差を考えればヴァレリーが一線を引いているのも頷けた。
「そういやイタリア行ってる連中とはいつ会うんだ」
「明日。夕方にはこちらに着く予定だよ」
ソファに沈み込んだ辰巳の前にコーヒーカップを置いて、フレデリックが隣に腰を下ろす。
「今日は時間があるけど、どうしようか」
「ヴァレリーはいいのか」
「彼は彼の仕事があるからね」
観光地でもあるコルス島を見て回るのも悪くはないのかもしれないが、久し振りに朝まで飲み明かした辰巳は太陽の下にその身を曝す気にはなれなかった。
結局、面倒くさそうな辰巳の態度を察したフレデリックはどこへ行こうとも口にしなかった。
何をするでもなくソファでコーヒーを飲みながら窓から見える港町をふたりで眺める。港を行きかう船は多く、部屋の中に居ても活気が伝わってくるようだった。
しばらく景色を眺めていた辰巳は、カップの中身が空になったのをきっかけにソファへと躰を横たえた。起きて間もないというのに盛大なあくびを漏らす。
「眠いかい?」
「久し振りにあんな時間まで飲んだからな」
「それにしても、ヴァレリーと最後までお酒を飲む人がいるとは思わなかった」
「はあ?」
「彼はあんな性格だからね。自分のペースで人に飲ませようとするから今じゃ一緒にお酒を飲んでくれる相手が居ないんだよ。昨日、喜んでいただろう?」
確かに言われてみればヴァレリーも辰巳も随分なハイペースで酒を飲んでいた気もする。だが、辰巳にとって重要なのは”酒を飲む早さ”ではなく”酒の種類”だ。
その点において、ヴァレリーの用意した酒は辰巳を満足させた。いやむしろヴァレリーも辰巳と同じような飲み方をするのだ。味さえ変わるのなら辰巳はいくらでも酒を飲んでいられる。
「まあ、ヴァレリーと飲むのは悪くねぇよ」
「そうだろうね…」
些か嫌そうなフレデリックに苦笑を漏らし、辰巳は胸に乗った金色の髪を指先で弄んだ。
「しかしお前、いっつもヴァレリーにあんな態度とってんのか」
「あんな…?」
「わざわざ頭押し付けてただろぅが」
「少しは嫉妬してくれた?」
「呆れてるっつったのも、たいした代償じゃねぇっつったのもお前だろぅが」
「ええ…? 少しくらい嫉妬してくれても…」
ぶつくさと不満をたれるフレデリックの髪へと口づける。普段の鋭さはどこへやら、嫉妬したかと言われて辰巳が否定していない事にも気付かない鈍い嫁を残念に思わなくもない。
「お前は、してねぇのか?」
「あれは、仕方がないと思ってるよ…。ヴァレリーの性格を僕はよく知ってるし、彼が辰巳を気に入るだろうってことも分かってたことだからね…」
「お前、ときどき馬鹿だよな」
「馬鹿!? 人がせっかく……」
文句を言うフレデリックの唇を、辰巳の人差し指が塞ぐ。
「そうじゃねえよ阿呆。俺が聞いてんのは、そんなことじゃねえって言ってんだ」
「っ…それは、僕の気持ちはキミが良く知ってるじゃないか…」
「だったら最初から素直にそう言えよ」
「言ったら呆れるくせに…」
ふいと視線を逸らすフレデリックの顎を、辰巳は意地の悪い笑みで持ち上げた。
「俺は、正直嫉妬したぜ?」
「っ……嘘吐き…」
小さく呟いたフレデリックの額を、今度こそ辰巳は人差し指で容赦なく弾いた。ビシリと、鋭い音が部屋に響く。
「ッ…!」
「俺の気持ちをお前が決めんな」
胸の上で微かに震えるフレデリックの肩を抱き寄せる。
「うん…。ごめん」
「らしくなく気ぃ遣ってんじゃねぇよ。こっちが不安になんだろぅが」
「不安…? 辰巳が…?」
どうにも、いつもの鋭さの欠片もないフレデリックが憎らしい。良くも悪くもヴァレリーという男はそれだけフレデリックに精神的な影響を与える存在なのだろうと思えば、些か悔しくもある辰巳だ。
「お前、俺をなんだと思ってんだ?」
いつもは辰巳が嫉妬などしようものなら喜んで舞い上がるくせにと、内心苦虫を噛み潰す。
「ったく、揶揄う訳でもねぇのにこんなこと言うのは得意じゃねぇんだよ…」
「え…っと…、それはもしかして…」
「ようやく気付いたかこの馬鹿」
ビシリと再びフレデリックの額を弾いて、辰巳は熱くなった顔を腕で隠した。
「鈍すぎんだよクソが」
「我慢しなくていい? 僕も、嫌って言っていい…?」
「いっつも遠慮なく言ってんだろ。我慢なんぞしたこともねぇくせにらしくねぇことすんな阿呆」
「だって昨日は…」
「分かってるよ。お前が我慢してんのは知ってたけどな、だからって俺にまで変な気ぃまわして我慢すんな」
顔を隠したまま動く辰巳の唇に、フレデリックは齧りついた。
「ッ…!?」
「好き。大好きだよ辰巳…っ」
だから顔を見せて? と、そう告げるフレデリックは、どうやら調子を取り戻したようだった。
◇ ◆ ◇
コルス島滞在二日目をゆっくりと部屋で過ごした辰巳とフレデリックは、三日目の今日、ヴァレリーへと挨拶を済ませてバスティアを離れた。
海沿いの道を南下してポルト=ヴェッキオという港町を目指す。ポルト=ヴェッキオでイタリアへと情報収集に渡っていた三人と合流し、マルセイユへと向かう予定である。
フレデリックがハンドルを握る車中、辰巳は相変わらずあくびを噛み殺していた。
「本当に、朝は弱いね…」
「そりゃあ俺のせいじゃねえ。文句はヴァレリーに言えよ…」
朝。といっても既に時刻は昼を過ぎ、午後のティータイムといってもおかしくはない時間である。朝が遅いのをいいことに、ほぼ明け方という時刻まで酒に付き合わされた辰巳である。
「あの男はいつ寝てやがるんだ…?」
思わず愚痴を零す辰巳にフレデリックは苦笑を零した。
シートを倒して寝たらどうだというフレデリックの言葉に辰巳は大人しく従った。その目もとには、しっかりとサングラスが乗っている。
安心しきった辰巳の寝息をBGMに、フレデリックの運転する車は二時間と三十分の時間をかけて小さな港町に到着した。
車を停めても起きる気配のない辰巳を車内に残し、フレデリックはスタンドでコーヒーと小さな焼き菓子を購入した。腕時計へと視線を落とせば、そろそろイタリアからの便が到着する時刻だ。手に持ったコーヒーを一口すすって再び運転席へと乗り込んだ。
スタンドから少しの距離を走り、港の見える駐車場へと車を停める。小さな港へと入ってくる大きな船影をフロントガラス越しに眺め、フレデリックは辰巳の肩を揺らした。
「辰巳、そろそろ起きて?」
「あぁ…?」
「コーヒーを買ってあるよ。少し冷めてしまったけれど」
「ああ」
寝起きで口数の少ない辰巳にくすりと笑みを零し、フレデリックは火を点けた煙草を差し出す。シートに寝ころんだまま旨そうに煙草をふかす辰巳の胸元へと悪戯に倒れ込みながら、フレデリックは囁いた。
「お腹は空いていないかい? 食事はマルセイユ行きのフェリーで摂る予定だけれど、その前に軽く済ませるくらいの余裕はあるよ」
「出発何時だ…」
「十八時。明朝八時の到着予定だね」
フレデリックを押し退け、怠そうにシートを起こした辰巳は時間を確認してドアを開けた。咥え煙草のまま車外で躰を伸ばす辰巳の元へとフレデリックが車を回り込む。
「運動不足になってしまいそうだね」
「ああ? 俺ぁお前と違ってもとから運動なんぞしてねぇよ」
呆れるというよりは嫌そうな顔を見せる辰巳に些か不貞腐れたフレデリックは、シャツの上から辰巳の脇腹を撫でた。
「痣、痛くない?」
「ああ」
「避けるか止めるかしてくれないと、心臓に悪いよ…」
「一発入れりゃ気が済むんだ、好きにさせてやれよ」
ヴァレリーの辰巳に対する態度をみれば、イヴォンが腹を立てるのも仕方がないと、そう思う。
辰巳は、わざとらしく口角をあげてフレデリックの頭を撫でた。
「大人のお前は、我慢できて偉いなぁ」
「っ…! んもぅ! どうしてそうキミは意地が悪いのかな!」
「誉めてやってんだろ、素直に喜べよ」
「どれだけ僕が我慢したと…!」
痣の心配をしながらもぎゅうぎゅうと腰を抱き締めてくるフレデリックに苦笑を漏らしながらも、辰巳は金糸の髪へと唇を寄せて囁いた。
「本当にな。あん時、手を止められたお前はいい男だよ、なあフレッド」
「……死ぬ…」
首筋から聞こえてきたくぐもった呻き声は、辰巳の笑い声をあたりに響かせることとなった。
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