act.05

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   ◇   ◆   ◇  旅行嫌いの辰巳にとって、イタリアの土を踏んだのはもちろん初めての事だった。辰巳にとってヨーロッパの街並みはどこも似たように見える。否、日本以外であればどこも同じようなものではあるのだが。  重そうなジュラルミンのケースを片手にさげたフレデリックと並んで辰巳がまず向かったのは、洒落た装飾の施された外壁をもつホテルのカジノだった。 「正面から乗り込むつもりか?」 「別に僕たちは何かをしようとしている訳じゃない。ただの観光客だよ」 「そりゃあそうだろうがな…」  そんな言い訳が通じるのかと、呆れ顔の辰巳に構うことなくフレデリックは賑やかなフロアへと足を踏み入れた。スロットやカードを楽しむ客たちの合間を縫い、奥へと進んでいくフレデリックの後を辰巳が追う。  やがてフレデリックが立ち止まったのは、緞帳(どんちょう)と見紛うほど厚いカーテンの手前だった。すぐ横に立つ黒服がフレデリックと辰巳を値踏みするかのように見ているのがサングラス越しにも分かる。  やがて男は大柄に見合った低い声で会員証の提示を求めた。 「会員証はないけれど、これでどうかな。今夜は遊びたい気分なんだけど」  フレデリックが器用に片手で抱えたケースを開けてみせれば、男は口許を歪めて太い首を倒した。長い指先がケースの中から数枚抜き出した五百ユーロ札を男の胸元へと捩じ込む。 「ありがとう。良い夜を」  気障ったらしいフレデリックの仕草に辰巳が溜息を吐いたことは言うまでもなかった。  緞帳の向こうのドアを抜けた先のフロアは広く、今しがた通ってきたフロアとは明らかに雰囲気が違っていた。微かな囁き声とウィールの回転する音が耳に心地良い。  すぐさま近寄ってくる黒服に二、三囁いたフレデリックとともにブラックジャックのテーブルに着いた辰巳は、見るともなく周囲を眺めた。  カジノである以上カメラの数は相当数ある。運ばれてきた飲み物を口へ運べば、思っていたより喉が渇いていたことを辰巳は思い知った。  ――らしくねぇな。  無駄に緊張している自分に自嘲を漏らし、辰巳はグラスを一気に空けた。カランと涼しげな音をたてて氷が崩れる。 「緊張してる?」  耳元に囁く愉しげな声に、辰巳は視線だけを動かしてフレデリックを見た。 「お前が横にいんのにするかよそんなもん」  僅かにあがる口角を見れば、それが辰巳の嫌味である事にフレデリックは気づく。テーブルの下で、フレデリックの長い指が辰巳の腿をぎゅっと摘まんだ。 「ッ……痛ぇだろぅが」 「キミが意地悪をするのが悪い」 「ああ? 嘘は言ってねぇだろぅがよ」  渋い顔をする辰巳の腿を、今度は長い指がゆるりと辿る。 「僕を煽った代償は、今夜たっぷり部屋で払ってもらうから」  にこりとフレデリックが微笑んだ、その時だった。ドンと勢いよくテーブルに突かれた手に、辰巳の飲み干したグラスが倒れる。転がり出た氷がテーブルを濡らした。 「あ?」  怪訝そうな顔の辰巳とは打って変わり、もとよりその人物の存在に気づいていたフレデリックは、微笑みを浮かべて首を擡げた。 「噂通り、ずいぶんと目立つのが好きなようだね」 「どちらがだ? 俺か、お前か」  聞き覚えのない声に辰巳が見上げた先には、口角だけを持ちあげて嗤う男の顔があった。  ――マルコ・ジュリエッティか…。  ロイクから渡された資料にあった写真の男の顔に、辰巳はようやく今現在なにが起きているのかを把握した。  自分たちが姿を見せれば必ず出迎えてくるというフレデリックの予想に違わず現れたマルコに、辰巳は内心で小さな溜息を吐いた。どうしてこう血の気の多い連中ばかりなのかと。 「やあ初めまして、マルコ・ジュリエッティ。僕はフレデリック。まあ、名乗らなくても知っていると思うけれど」 「もちろん知ってるさ。フランスの田舎者がどうして俺の庭で遊んでるのかもな」 「あははっ、そんな田舎者でもこうして入り込める。キミのところの番犬は躾が足りていないのかな?」  フレデリックとマルコの間に、見えない火花が見えるようだった。 「こんなつまらない場所より、もっと楽しい遊び場へ招待してやろうって言ってんだよ。感謝くらいしたらどうだ?」 「マルコ・ジュリエッティの招待とは、僕のような田舎者には恐れ多いね」  そう言いながら、フレデリックは立ち上がった。十センチほど身長の低いマルコを悠々と見下ろす。 「では、好意に甘えて招待を受けようか。ねぇ辰巳?」 「ああ? ったく、落ち着いて酒飲む暇もねぇな」  フレデリックに続いて立ち上がった辰巳の腰に、するりと長い腕が巻き付いた。僅かに躰をフレデリックの方へと引き寄せられる。 「あ…?」  小さく声を漏らす辰巳の耳元に、フレデリックが低い笑い声とともに囁いた。 「キミと引き離されたら困るから…ね?」  それと腰を抱くことになんの意味があるのかと思いはしたが、無理にフレデリックの腕を振り解こうとはしなかった。先ほどから、フレデリックへのそれとは違う訝るようなマルコの視線を辰巳は感じとっていた。 「もちろん、こんなところに恋人を残していけなんて無粋は言わないよね?」 「恋人…?」 「そう。僕の恋人。良い男だろう?」  フレデリックが半ば本気で言っている事は明白で、辰巳は小さく息を吐いた。 「こいつの馬鹿な質問に答える必要はねぇよ。それに、あんたとこいつの話に水をさすつもりもねぇ」 「東洋人にしては腹が据わってるようだな」 「そりゃどうも」  さして感銘を受けた様子もなく辰巳はそう言って、フレデリックとともにマルコに誘われるままフロアのさらに奥へと進んでいった。すぐ後ろを、マルコの連れた黒服が二人ついてくる。どちらもフレデリックに劣らぬ身長と、フレデリックよりも恰幅が良い。 「もう少し、見目にも配慮してほしかったなぁ」  ちらりと背後に視線を遣って日本語で呟くフレデリックに、辰巳は呆れたように片方の眉を挙げた。 「どうだっていいだろそんなもん」 「まぁそうだね。いざとなったら遠慮なく消えてもらうよ」 「血生ぐせぇこと言ってんじゃねぇよ」  このところ血の気の多いフレデリックをじろりと睨み、辰巳は小さく息を吐いた。  マルコに案内されて辿り着いた先は、フロアを見下ろせる二階のちょっとしたラウンジのような場所だった。カードゲーム用のテーブルと、ディーラーが一人いる以外はマルコと二人の黒服以外に人はいない。  辰巳は、フレデリックの手で引かれた椅子へと腰を落ち着けた。いつものように左側に腰を下ろすフレデリックを挟んでマルコが座る。 「まさかこんなところに招待されるとは思わなかったな…」 「怖気づいたか?」 「多少ね」  素直に肯定するフレデリックを、マルコの胡乱げな視線が真意をはかるように見ていた。マルコの視線に応えるように口を開いたのは、フレデリック自身である。 「キミと遊ぶには、今の手持ちの金では少々心もとない」 「最初から金を落とすつもりでいるってのか? 田舎者ってのは欲がないな」 「恋人の前で身ぐるみを剥がされるなんて、無様な真似は出来ないよ」 「ハハッ、そりゃ同情するぜ」  フレデリックの台詞を本気にしたわけでもなかろうが、マルコは大袈裟に肩を竦めてみせた。  幾分か和らいだ機会を逃すことなく資金の追加を要求したフレデリックに、マルコはニッと口角をあげて嗤った。 「まあ、ここに一人や二人田舎者が増えたところでどうなるもんでもない。精々金を落としてもらおうじゃないか」  マルコの台詞にスマートフォンを取り出したフレデリックは、電話口に二、三告げて端末を胸元へと戻した。 「部下が来るまで少々時間が掛かりそうだ。レストルームはどこかな」  マルコが軽く顎をしゃくると、黒服のひとりがフレデリックのすぐ背後へと近づいた。 「ご案内いたします」 「ありがとう。…少し、待っていて辰巳」  立ち上がり際に額へと口づけるフレデリックを、辰巳は顔を顰めて見送った。溜息とともに違和感の残る前髪を指先で掻き上げていれば、マルコの可笑しそうな声が耳へと流れ込んだ。 「飲み物でもどうだ」 「そうだな、ウイスキーでももらうか」  何気なく辰巳が告げれば、マルコの目配せを受けて黒服が静かに踵を返した。随分と躾けが行き届いているらしい。 「お前の恋人が何者であるのか、もちろんお前は知ってるんだろうな?」 「ああ? フレッドもあんたもマフィアだってんだろ。悪ぃが俺も似たようなもんだ」 「ジャパニーズマフィア? 日本では”ゴクドウ”と言うのだったか?」  ”極道”と、片言に発音するマルコに、少なくともマルコがフレデリックの周囲を調査済みだということは分かった。辰巳の存在を知らなければ、イタリアンマフィアがわざわざ日本の極道などに興味を持つはずもない。距離が遠すぎるのだ。  どこまでもフレデリックの予測通りに事が進んでいるような気がして、辰巳は内心で溜息を吐くほかなかった。  やがて戻ってきたフレデリックに、辰巳は右手を挙げてみせた。けして不自然には見えない合図。  フレデリックはにこやかに微笑んで、再び辰巳の額へと口づけを落として席に着いた。 「やあ待たせたね。それじゃあゲームを始めようか」 「ブラックジャックのテーブルに着いていたようだが、勝負はどうする」 「そうだなぁ、キミが良ければポーカーなんて手軽でいいと思うけれど」 「ルールは」 「フロップ・ポーカーでどう? ディーラーはプレイヤーが兼ねる。チップは単色で構わないね。ベットはノーリミットで」 「テーブルステークスは?」 「”無様な真似”と言ったのは、冗談のつもりだったんだけどな…」 「いいだろう。通常どおりだ」  フレデリックに負けず劣らず大袈裟な仕草で肩を竦めるマルコに、辰巳は溜息を隠そうともしなかった。 「なんだ?」 「いや? 西洋人ってのは、総じて気障ったらしいもんだと思ってよ」 「ははっ、表情だけならお前も変わりはしないというのにか」  マルコの一言に、辰巳は黙り込む事しか出来なかった。言われてみれば確かに、フレデリックもマルコも仕草は大きくとも感情を顔に出してはいない。 「彼のそんなところが僕は気に入ってるんだけどな」 「躰に似合わず可愛らしい子猫だ」 「あ?」 「辰巳」  フレデリックの制止の声に、辰巳は喉元まで出かかった罵詈雑言を飲み込んだ。
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