act.05

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 裏口からカジノを出た辰巳とフレデリック、それに大きなアタッシュケースを両手にぶら下げたロイクがホテル・アンビットへと戻ったのは、ディナーの時間直前のことだった。マルコの身柄は途中でクリストファーが引き取っていった。 「ゆっくりシャワーを浴びる時間もないじゃないか。まったく迷惑な男だよ…」 「つぅか、それよりもこのまま入って大丈夫なのかよ」 「もちろん。ここは会員制で、僕たちのような人間しか入れない。ついでに言うとホテル内でのいざこざはご法度だから、辰巳も一応気を付けておいてね」  片目を瞑ってみせるフレデリックに、辰巳は反論を諦めた。  ロイクが後ろに続く部下へとアタッシュケースを運んでおくよう指示を出すのを耳聡く聞きつけて、フレデリックが振り返る。 「まさか、キミも一緒に食事をするつもりじゃないだろうね」 「もちろんそのつもりだけど?」  何か問題があるのかとでも言いたげなロイクにフレデリックが舌打ちを響かせる。ともかくシャワーを浴びてくるとそう言って、辰巳とフレデリックは一度部屋へと戻った。  正方形のテーブルでフレデリックとロイクに挟まれた辰巳が顔を顰めた事は言うまでもない。似た顔の男二人に挟まれてする食事ほど不味いものはない。特にこの二人は。  気まずい空気の中、前菜を口に運んだ辰巳の表情が渋いのは、サーモンにかかったソースの酸味が効きすぎているせいだろうか。 「そういえばフレッド。ダリウスからの連絡は?」 「まだないね」 「ふぅん? 彼にしては珍しいね」  連絡が取れないというのにロイクに心配している様子は微塵も感じられない。フレデリックもまた、同じような表情でロイクを見返して言った。 「これは、彼からの情報は諦めた方がいいかな」 「とっくにアテになどしていないくせに」 「情報はね」  ダリウスの無事は信じていると、そうフレデリックは付け足した。 「殺されちまってる可能性はねぇのかよ?」 「ないね」 「どうして言い切れる」 「もしダリウスが殺されているのだとしたら、とうに見せしめとして首が送られてきているはずだからね」  フランスのホテルに届けられた首はひとつ。もしダリウスが捕まっているとしても、殺されてはいないだろうとフレデリックはそう言った。 「まったく。君たちは食事の最中くらいもう少しマシな話は出来ないのかい?」 「お前が先に言いだしたんだろぅが」 「僕は連絡があったかどうかを尋ねただけで、ダリウスの生死については聞いていないよ」 「同じようなモンだろぅが」  何が違うのだと辰巳が顔を顰めてみても、ロイクは何も答えなかった。  空腹を満たし、部屋へと戻った辰巳はソファに腰を下ろした。落ち着いてみれば随分と躰が重い気がする。  グラスを両手に持ったフレデリックは、背凭れに深く沈みこんだ辰巳を発見することとなった。 「さすがに疲れたかい?」  グラスを置いてするりと腕の中へと滑り込むフレデリックを開けた片目で眺め遣り、再び辰巳は目を閉じた。押し退ける気力もない。 「お酒も、今日は要らなそうかな?」 「ああ」 「こんなに素直なキミも、珍しいね」  黒髪を撫で梳く長い指を、武骨な手が鬱陶しそうに一度だけ払った。 「撫でんな」  短く告げられた言葉がいつも以上に不機嫌に響いて、フレデリックは僅かに眉根を寄せた。 「ゆっくり湯船に浸かって、今夜は早めに休もうか」  辰巳の腕を抜け出して、フレデリックはバスルームへと向かった。フランスのホテルよりも広いバスルームに鎮座した湯船は、下手をすれば日本のそれよりも大きく、フレデリックが辰巳と入っても狭い思いをしなくて済みそうである。  温かな湯が湯船を満たしていくのを、フレデリックはぼんやりと眺めた。  ――思ったよりも神経を使わせてしまったかな…。  幾度か仕事に辰巳を同行させた事はあるものの、今回に比べればどれも遊びのようなものだ。いくら喧嘩に慣れていようとも、あれだけの数の死体を見れば気落ちしてもおかしくはない。  ――やっぱり連れてくるべきじゃなかったのかもしれない…。  離れたままで居られるはずもないというのに、一緒に居ればそれはそれで後悔が頭を擡げる。 「何をぼやっとしてんだお前は」 「ッ!?」  唐突に聞こえてきた声に振り返れば、浴室のドアにもたれ掛かった辰巳の姿があった。 「辰巳…」 「どうせまたひとりで碌でもねぇこと考え込んでんだろ」 「キミのことを考えてた」 「だったら、風呂が溢れる前までにしておけよ」 「え?」  フレデリックが湯船を振り返った瞬間、湯船いっぱいに溜まった湯がスーツを濡らした。 「…っあ」  苦笑を漏らしながら差し出された辰巳の手を、フレデリックは中腰のまま掴んだ。 「いくら考え込むにしたって、ぼんやりしすぎじゃねぇのか?」 「…ごめん」 「俺に謝ることじゃねぇだろ」  くしゃりと武骨な手が金色の頭を撫でていく。 「おら、さっさと脱げ」  先刻までの不機嫌さはどこへやら、辰巳の態度はいつもと変わらなかった。  珍しくも服を脱がせにかかる武骨な指先を見るともなく眺める。そんなフレデリックの様子に辰巳は再び苦笑を漏らした。 「いつまで人の手ぇ煩わせてんだ、あ?」  言葉のわりに優しい声色で囁かれ、フレデリックが舞い上がらないはずはなかった。ジャケットを脱がせようとするのにも構うことなく抱きつくフレデリックに鋭い舌打ちが響く。けれども辰巳は、苦笑を浮かべたままフレデリックのスーツを剥ぎ取っていった。  開け放したままのドアから脱衣場へと放り投げられた布地が作った小さな山を眺め、フレデリックは目もとに笑みを浮かべた。    ◇   ◆   ◇  イタリアの地を踏んで五日。ナポリで合流を果たしたヴァレリーとともに、辰巳はローマへと移動していた。珍しくもフレデリックとは別行動だ。  フレデリックはといえば、こちらは片付ける仕事があるとナポリに留まっている。今ごろは、クリストファーも合流しているはずだ。 「先に言っておくが、ここでは些細な揉め事も厳禁だ。気を付けろよ辰巳」  フレデリックにも聞かされたルールをヴァレリーが口にする。  ホテル・アンビットは、どうやらヨーロッパの各地にあるらしい。マフィアに限らず、あらゆる裏社会の人間たちが利用するホテルのオーナーの影響力は計り知れないという。  マフィアが口を揃えて言うほどの影響力がどの程度であるのか、辰巳には想像すらできない。 「フレッドにも言われたが、そんなに厳しいのかよ?」 「ホテルのルールを破って生きている奴はいない。と、そう言えばわかりやすいか?」  あっさりと告げるヴァレリーが、正直辰巳には意外でもあった。マフィアというのは、裏社会全体を牛耳っているものだとばかり思っていたのだ。だが、どうやら上には上がいるようである。そして、フレデリックもヴァレリーも、それを受け入れている。 「覚えておく」  素直に辰巳が言えば、ヴァレリーは口角をあげて頷いた。  極道とはいえ土地が変われば外様である事に変わりはない。郷に入っては郷に従えというのは、辰巳にとって当然の事だった。まして命に係わることを軽く笑い飛ばすほど、愚かでもない。  上昇するエレベーターの中、不意にヴァレリーが呟いた。 「不思議な男だな」 「あん?」  怪訝そうな声を返しながらも、辰巳は”またか”と、そう思わずにはいられなかった。  これまでにも”不思議”と評されることはよくある辰巳だが、辰巳自身はといえば、まったくもってどこが不思議なのか分からないのだ。ただ、口にした相手が敵意を向けている訳でも、侮っている訳でもない事だけは確かだった。 「よく分からねぇが、よく言われるよ」  素っ気なく応えた辰巳に、ヴァレリーはふっと表情を緩ませた。 「フレッドがいなくて良かったな。危うく惚気倒されるところだ」 「そりゃああれか。お前のそれは、誉め言葉って事かよ?」 「他にあると思うか?」  あっさりと言われても、辰巳としては些か腑に落ちないのも事実である。そもそも”不思議”というのは誉め言葉としてどうなのか、と。どうにも釈然としない顔のまま、辰巳はエレベーターを降りた。  辰巳の部屋は、ヴァレリーと並びの部屋だった。向かいの部屋に入ろうとするロランの腕を引き留めるヴァレリーに苦笑を漏らし、夕食にまた落ち合う旨を告げて辰巳は部屋へと入った。  然して広くはない部屋ではあるが、フレデリックがいないというだけでどこか広さを持て余す。二人で座れば窮屈に思えるだろうソファも、心なしか居心地が悪かった。  いよいよ毒されたものだと危機感を募らせながらも、咥えた煙草に火を点ける。宙にしぶとく漂う紫煙をぼんやりと眺めていれば、部屋の電話が着信を告げた。 『タツミ様。外部よりお電話が入っておりますが、如何いたしますか?』 「相手は」 『……それが、ヴァレンティノ・ジュリエッティと名乗っておりまして…』  当然の質問にもかかわらず、回線の向こうでスタッフが僅かな間沈黙したその意味を、辰巳は理解した。 「本人なのかよ?」 『申し訳ございませんが確認できかねます』  スタッフの言葉にも、頷くほかにない。実際に存在するかどうかも分からないような相手なのだ。  嫌がらせか、本人かは分からない。だが、どちらにせよ相手の都合に合わせてやる義理など辰巳にはなかった。 「断る。ついでに伝言しといてくれや」  辰巳は、話がしたいのならホテルへ直接来るようにとそう告げて電話を切った。本人かどうかも知れない相手など、話すにも値しないと。  やれやれと再びソファに沈み込んだ辰巳である。ふぅ…と小さく息を吐けば、今度は胸元のスマートフォンが着信を知らせた。 「ったく、忙しいこった…」  液晶にクリストファーの名前を確認して、辰巳は通話ボタンをスライドさせた。 「俺だ」 『開口一番不機嫌そうだな。何かあったのか』 「まあ、あったっちゃあったが、たいしたことじゃねぇよ。立て続けに電話があっただけだ」  それだけで不機嫌になるのかと、回線の向こうでクリストファーが朗らかに笑う。だが、相手の名前を辰巳が告げれば、クリストファーは瞬時に黙り込んだ。次いで、訝しむような声が聞こえてくる。 『本人だったのか?』 「俺は直接話しちゃいねぇよ。話がしてぇなら直接ツラ出せって伝言頼んで切っちまったからな」 『なるほど。賢明な判断だ』  幾分か安心したような口調のクリストファーに苦笑を漏らし、辰巳は用件を尋ねた。 『たいしたことはない。フレッドがいなくて部屋で野垂れ死んでないかと心配になっただけだ』 「いったい俺を何だと思ってんだ?」 『生活能力皆無の無精者だろう』  動物でさえまだマメだと、躊躇いもなく言われてしまえばさすがに反論のひとつもしたくなる辰巳だ。 「だいたいお前、ホテルに着いたばっかりで死ぬもクソもあっかよ」 『今後の心配をしてやってるんだろうが』  反論など気にも留めず、やれ風呂はどうするのだ、酒も自分で用意できるのかと矢継ぎ早にまくし立てるクリストファーに、辰巳は手の中の小さな端末を放り投げたい衝動にかられた。 「わかったわかった。お前の心配はごもっともだが、さすがに俺だって誰もいなけりゃてめぇの世話くらいするっつぅんだよ」 『……本当か?』 「しつけぇな」 『まあ、どうにもならなくなったらロランにでも頼め』  連絡はしておいてやると、あっさりと告げてクリストファーの方から通話は切れた。 「ったく、何だってんだよあの野郎…」  思わず辰巳の口をついて出た舌打ちが、静かな部屋にやけに大きく響いた。
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