act.01

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act.01

 翌日。目を覚ました辰巳がスマートフォンを片手に固まることになった事は、言うまでもない。  呆れかえるほどの着信履歴とメールの通知件数。そのうえメッセージアプリの件数も合わせれば頭痛すら覚える。  ――マジかよ…。  内容は、見るまでもない。  フレデリックの性格を考えればこれはただの嫌がらせでしかないはずだ。が、その目論見はまんまと達成された。  昨晩うっかりキレて電話を切ったあげく、勢いに任せて浴室で二度目の自慰行為。気だるさの赴くまま寝台に沈み込んだ辰巳は、すっかりフレデリックのことを忘れていた。スマホを見るまでは。  床に放り投げた電子機器を辰巳が危うく踏みつけそうになったのは、つい一分前のことである。 「あー…やべぇ…」  思わず掠れた声で呟いて、辰巳は僅かに寝ぐせのついた髪をガシガシと掻いた。ついでに履歴の先頭にある有り得ない着信回数が表示された番号をタップする。  呼び出し音は、鳴らなかった。 『おはようカズオキ。昨夜はよく眠れたようだね』  すぐさま聞こえてきたフレデリックの声は、表面上は穏やかだった。だが、”カズオキ”とわざわざ名前を呼んで寄越すフレデリックの機嫌が良いはずもない。 「あー…なんだ…、その……悪かった…」 『キミにしては殊勝な科白を吐くじゃないか』 「そう怒んなよ。謝ってんだろ?」  うっかり寝コケはしたものの、昨晩の記憶はしっかりと残っている辰巳である。フレデリックを止めるはずが、余計に機嫌を悪化させた自覚は大いにあった。 「そっちの様子はどうだ」 『キミらしくもない聞き方をするね。正直に僕の居場所を確認したらどうだい?』  取り付く島もないとはこの事かと、そう思う。否、確かにフレデリックの言う通り、辰巳らしくない聞き方ではあったのだが。  事情が事情であるだけに、フレデリックがフランスを離れられるはずもないと思う一方で、フレデリックならば無理にでも我儘を通してしまいそうだという思いがある。  ともあれ本人に正直に確認しろと言われてしまえば、辰巳にこれ以上取り繕う隙はなかった。 「どこに居るんだ」 『どこに居ると思う?』 「お前なぁ、いつまでも人のこと揶揄ってんじゃねぇよ」 『僕を放り出して寝てしまったくせに?』 「ガキじゃねぇんだ、それくらいで拗ねんな阿呆」  幾度も頭を下げる趣味は、辰巳にはない。それを分かっているくせにねちねちと不満を漏らすフレデリックが手に負えない。  そもそもが出会った頃の十数年を除けば、辰巳とフレデリックは殆どの時間をともに過ごしている。まったく離れなかったかといえばそんな事もないのだが、先が見えない状況というのは初めての事だった。 『キミに会えないと思うだけで、僕はすべてを投げ捨ててしまいたくなる』  思いのほか真面目なフレデリックの声が耳朶を叩く。互いに依存しすぎていると自覚していながらも、これまで目を背けていたツケが回ってきたようだと、辰巳は思わざるを得なかった。  普段の辰巳であれば、何を馬鹿なことを言っているのだと一笑に付したかもしれない。だが、この時の辰巳はフレデリックの危うさを本能で理解していた。 「馬鹿こと言ってんな。…と言いてぇところだが、正直俺だって参ってるんだぜ?」 『どうせキミの場合は、身の回りの世話をしてくれる手が足りないから困っているだけだろう?』 「茶化すんじゃねぇよ」 『…っ。……本気?』 「残念ながら、な」  謀らずも苦い笑いとともに零れ落ちた辰巳の言葉に、回線の向こうでフレデリックが黙り込む。真意をはかっているのか、それともただ喜んでいるのかは、さすがに辰巳といえども分からなかったが。 「お前に会いたくねぇ訳じゃねぇよ。だが、仕事ほっぽり出すのとは話が違ぇだろ。まあ…俺が言うのもなんなんだがよ…」 『参ったな…』 「あぁ?」 『キミに…嫌われたくない…』 「訳わかんねぇな。別に嫌ってねぇだろ。なに聞いてんだお前」  顔を顰めた瞬間、ふと既にフレデリックが日本に居るのでは…と、そんな思いが辰巳の脳裏を過った。  ――いや、あながち有り得なくもねぇな。  フレデリックの行動力は計り知れない。が、ふと時計を見上げた辰巳はその可能性が皆無だと気づいた。いくらフレデリックといえど時間の壁を超えるのは不可能だったし、機内に居るとすればこうして話せるはずもない。  ひと先ずは胸を撫で下ろし、沈黙したままの回線の向こうへと意識を戻す。 「おいフレッド、聞いてんのか?」 『……辰巳、怒らないで聞いて欲しい…』  改まったフレデリックの態度を訝しむ間もなく、辰巳の耳には聞き慣れた開錠音が微かに聞こえた。 「お前…!」  廊下を振り返った瞬間、文句を言う隙もなく辰巳の躰はフレデリックの腕の中にあった。 「嫌いにならないで…?」  つい今しがたまで回線の向こうに聞こえていた声が耳元で囁く。それは、なんとも奇妙な心地がした。  だがしかし、怒るな嫌いになるなと言われても、そんなものはフレデリックの返答次第である。こんな短時間でフランスから日本に来れるはずもない以上、事と次第によってはフレデリックに説教をくれてやらねばならない。 「一応聞いてやるが、お前どうやってこっち来た。まさか昨夜(ゆうべ)の時点でこっちに居たとか言わねぇだろうな」 「誓って言うけれど、昨日キミと話していた時の僕は、フランスに居たよ」  きっぱりと言い切るフレデリックは、嘘を吐いているようには見えない。だが、時間を考えれば不可能なのもまた事実なのだ。フランスから日本までは、直行便でも十二時間は掛かる。 「信じろって方が無理な話だろぅが。どうやったら十時間足らずで移動できるってんだ」 「確かに旅客機なら無理だろうけど、戦闘機なら不可能じゃない」 「…あ?」  そうそう耳慣れない単語に、辰巳は間の抜けた声を出す事しか出来なかった。戦闘機など、そういう趣味嗜好のある人間ならばまだしも一般的な会話に上る単語であるはずがない。  唖然と固まる辰巳の躰を、フレデリックは再びきつく抱き締めた。 「会いたかったんだよ…辰巳。キミを、こうして抱き締めたくてどうしようもなかった」  フレデリックの腕の中で、辰巳は思わず天井を見上げた。  よくもまぁ、とんでもない男を伴侶に選んでしまったものだとそう思う。ただの一週間も会わずにいられないなど、出会った頃を思い返せば呆れる以外ない。なによりも、この腕の中を心地良いと思ってしまう自分に呆れ果てる。 「勘弁しろよお前…」 「僕は…キミがいないと生きていけない…」  首筋に埋まった金色の頭から聞こえてきた声は、微かに震えていた。    ◇   ◇   ◇  都心とは思えないほどの広大な敷地に立つ邸宅…否、城のような佇まいさえ感じさせる洋館を、辰巳はフレデリックとともに訪れた。呆れるほどの広さを誇るこの場所には、何を隠そう辰巳の父親である辰巳匡成(まさなり)が住んでいる。  ――噂にゃ聞いてたが、マジででけぇな…。  車から降り立った辰巳は、洋館を見上げて思わず首を振った。昔、辰巳は一度だけここを訪れたことがある。その時は夕刻で、母屋から少し離れた場所にある広場のような場所しか見ていなかったが。  出迎えの使用人に連れられて階段を上る。広い廊下に並んだ扉の間隔を見るだけで、部屋の広さが窺えた。  フレデリックを連れて現れた息子の姿を、匡成は口の端に笑みを浮かべて迎えた。 「おう一意、尻に敷かれる気分はどうだ?」 「開口一番くだらねぇこと言ってんじゃねぇよクソ親父」  挨拶代わりの憎まれ口をたたき合い、辰巳とフレデリックは勧められてもいないソファに陣取った。向かいに座る匡成は文句を言う様子もなく煙草をふかすだけだ。 「吸って良いか」  胸元から取り出した煙草を辰巳が振って見せれば、「好きにしろ」と、短い返事が返って来る。辰巳は遠慮なく煙草を咥えた。開け放たれた窓から入り込む程よい風が、紫煙を掻き消していく。  フレデリックを連れてはきたものの、辰巳は口を開こうとはしなかった。すべては自分が話すと、ここに来る前に辰巳はフレデリックから告げられている。  やがて飲み物を運んできた使用人が退出するのを見計らって、匡成が口を開いた。 「それよりフレッドおめぇ、国へ帰ってたんじゃなかったのか」 「その事で匡成に話がある。出来れば人払いをして欲しいんだけれど」  ちらりとフレデリックの視線が向いたのは、大きな窓の向こう側。広いバルコニーだ。ふわりと揺れる繊細なレースのカーテンの向こうには、匡成の連れである雪人(ゆきひと)と、使用人の姿があった。  ”人払い”と言ったフレデリックの視線を追って、匡成は小さく首を振って見せた。内緒話をするには、雪人の持ち物であるこの屋敷は向いていない。 「だったら、場所変えた方が賢明だろうよ」 「匡成の気遣いはとても嬉しいけれど、僕が言っているのはただの形式上の話でね。彼が、僕の正体に気づいていないとも思っていないし、彼らから情報が洩れるなんて心配はしていない」 「ったく、相変わらず食えねぇ息子だよお前は」  辰巳雪人。旧姓須藤(すどう)雪人は、日本屈指の巨大企業グループSDIの元会長だ。雪人の情報収集能力がずば抜けているという事を、フレデリックは匡成以上に知っていた。ともすれば匡成個人についての情報量は、雪人の方がフレデリックのそれを上回るかもしれないという程度には。  それに雪人とフレデリックは、辰巳親子を間に挟まずとも知らない仲ではなかった。 「最低限の配慮くらいはさせて欲しい。彼も、わかってくれると思うよ」  フレデリックの希望通り、匡成は雪人へと別の部屋へ行くように告げた。雪人の方はといえば、文句を言うでもなく微笑んでみせる。 「一意もフレッド君も、どうぞごゆっくり」 「ごめんね雪人、少しだけ匡成を借りるよ」 「構わないよ。難しい話が終わったら、お茶くらいは付き合ってくれるんだろう?」 「喜んで」  まるで仲の良い友人のようなフレデリックと雪人の遣り取りに、顔を見合わせたのは辰巳親子の方だった。  雪人の背中が消えたのを見計らって、呆れたように匡成が呟く。 「フレッドお前、雪人と接点なんてあったのか?」 「彼は『Queen of the Seas』の大切なゲストだからね。雪人との付き合いは、これでも結構長いんだよ? まあ、さすがに匡成ほどではないけれど、ね」 「そいつは盲点だったな…」  まったく世間は狭いものだと呆れたように肩を竦める匡成へと、フレデリックは僅かに居住まいを正した。 「ところで匡成、キミに頼みがあるんだ」 「そんなに改まって言うような事かよ?」 「そうじゃなかったら雪人を追い出すような真似はしないよ」 「そりゃそうか」  重大な話なのだろうという雰囲気はあるものの、フレデリックや匡成には緊張や深刻さの欠片もない。まるで天気の話でもしているかのような口調そのものだ。 「で? 頼みってなぁ何だ」 「辰巳を僕にください…!」  言葉とともにフレデリックの金色の頭が深々とさがる。その横で、辰巳が額に手を遣って項垂れた事は言うまでもない。項垂れた辰巳の口から深く長い溜息が漏れる。  一方の匡成はといえば開いた口から煙草がぽろりと落ちるのが見えて、辰巳は再び深い溜息を吐いた。 「あ?」  たった一言を発した匡成の表情には、ありありと困惑の色が浮かんでいた。次の瞬間。 「痛いッ!!」  ごつりと鈍い音をフレデリックの声が相殺する。さげられたままの金色の頭には、当然のように辰巳の拳が乗っていた。 「どうしてキミはそうすぐに手をあげるのかな! 空気を和ませようと冗談を言っただけなのに!」 「だったらもっと気の利いた冗談にしろ。趣味悪ぃんだよ」  とはいえど、目の前の匡成の姿に辰巳は苦笑を漏らさずにはいられなかった。 「まぁ、おかげで貴重なモン見れたしな、後で撫でてやる」  後でとそういいながらも、武骨な手が金色の髪を撫でる。よっこいせと腰をあげた辰巳は、テーブルの下に転がった煙草を拾い上げて灰皿に落とした。 「いつまで阿呆面(あほっつら)曝してんだクソ親父」  言いながら調子に乗った辰巳が匡成の額を弾いたのをきっかけに、このあと壮絶な親子喧嘩が勃発したとかしないとか。まぁそれは別の話である。
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