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第4章 幸福な自分は人殺し
雨の降り始めは予想よりも早かった。
終礼が始まるくらいからポツポツと降り出し、解散する頃には本降りになっていた。
天気予報くらい新聞ででも確認しておくんだったな。
さて、どうしようか……生憎今日は合羽も傘も持ってきてなかった訳だし。でも幸いなことに小銭はあるんでバスで駅前までワープできる権利は持っている。ただ校門前のバス停は雨よけなるものがないからそこでは待てない。となるとバスが来る直前までどこかで時間を潰して、5分くらい前になったらバス停までダッシュをする。たぶんこれが正解。
時間を潰すって言ってもなぁ……教室だと日直が戸締りできなくなるからやっぱり図書館しかないか。バスの時刻表もあるし、静かな環境なら進まない読書が少しは捗りそうだから。
図書館の扉を少し開けると中から数人の女子の声が聞こえてくる。
「へぇ、アンタは野球部の神田が好きなんだ」
「そうなんですよ。クラスだとムードメーカー的な感じなのに、マウンドだとすごいクールで、でもそれがめちゃくちゃカッコよくて。もう惚れちゃいましたね」
「ふーん、野球部のエースね。いい趣味してるじゃない。アンタは?」
「アタシですか? アタシは中学のときから清水くん一筋で。あ、普2–Cの学級委員なんですけどー、優しくてー、勉強もできてー、そこそこ運動もできるんですよー。それでいてすっごいかわいい顔しててー」
タイミング悪っ。
よりによって森川先輩かぁ……同じ文化委員図書係だけど、どうもあの人は苦手なんだよな。しかも取り巻きの後輩2人はクラスメイトっぽいし、そもそも話題が恋バナだし。
さすがにここに飛び込む勇気はないな。
そっと扉を閉めて帰ろうとしたとき、思わぬ人の名前を耳にした。
「へぇ、2人ともクラスメイトにそれぞれ恋してるんだ」
「でもセンパイ、そんな2人に囲まれて逆ハーレム気取ってる女がいるんですよ」
「モテモテな子じゃん。誰?」
「日立あかりっていう根暗ですよー」
待って、何でそこに私が出てくる? それも逆ハーレムって……。
確かに神田くんや清水くんとはそれなりに話すけど。別に恋仲って訳じゃないんだからそんな風に言われる筋合いはない。
「あぁ、日立ね」
「知ってるんですか?]
「知ってるも何も、あの子文化委員だもの」
「あー、そう言えばそうでしたね」
「ちょっと謎の多い子よね。愛想悪いし、何考えてるかわからないっていうか」
「それなんですよー。クラスでも気味悪くて。女子とは全然話さないクセに神田くんや清水くんにはやったらベタベタするんですよねー。まったくあのチビの何がいいんだか。そんなんなんで、きっと昔から性格悪かったに決まってます」
「知ってます? あの子、右肘に大きなケロイドあるんですよー」
「あれキモいよね~。初めて見たときはマジドン引きだったわ。モンスターかよって」
恋バナは気がつけば私の悪口大会に変わっていた。
それぞれが思い当たる点を挙げてはけたけたと笑う。
身長とかさ、ケロイドとかさ、もう関係ないじゃん。
「はいはい、この話はお終いお終い。悪かったねこんなこと訊いて。あ、そうだ――」
一応は森川先輩が話題を締めくくって別の話題を始めようとしていたが、これ以上この場に留まろうとは思わなかった。だから気づかれないよう細心の注意を払いながら重い扉をそっと閉める。
廊下を歩く最中にもさっきの言葉が脳内再生されて止まない。
逆ハーレム気取り、根暗、チビ、ケロイドモンスター――言いたい放題言ってくれるじゃん。
極力クラスの人間とは距離を置いて人畜無害を演じてたつもりだったんだけどな。気づかないうちに有害物質になってしまっていたみたいだ。
でもか彼女たちは知らないから。
それは神田くんや清水くんだってそう。
私がどうして無表情の仮面を被ってるかなんて知るはずがないんだ。
――アカちゃんて本当に素直でわかりやすくてかわいい。
もう~、アカちゃんって呼ばないでって言ってるのに。
――ごめんごめん、でもやっぱりアカのそーゆーところがわかりやすくてかわいい。喜怒哀楽がハッキリしてるっていうか。アカそういうところ、アオは好きだよ。
自分だって中学校の始めまではよく笑って、よく怒って、よく泣いて……いたって普通の女の子だった。
親友と面白おかしく毎日を過ごしていて、ひと通りの幸せは知っているつもりだった。
でも私の幸せはたった1枚の紙切れによって消え失せ、結果として親友をも傷つけた。
右肘のケロイドは親友の笑顔を殺した私の罪の象徴。
そして、もう二度と人間に近づかないことが私への罰。
だから今の私は人と距離を置くのだ。それが自分も他人も護れるもっとも合理的な手段であると信じて。
翌朝も雨は降り続けたいた。
「今日も雨……嫌な天気ですね」
寮室の窓から沛然と雨が降り注ぐ外を眺めながらぼやく。
「そろそろ梅雨の季節だしね、仕方ないわよ」
「……」
「暗いねひーちゃん」
「そんなことないですよ」
「昨日そらに何か言われた?」
その言葉にドキッとする。
雫先輩の言う“そら“とは森川先輩のこと。
あの人に直接何か言われた訳じゃないにしろ、何で原因をピンポイントに当てることができるんだ?
平静を装いながら「何でそう思うんですか?」と尋ねる。
「ちょっとした推理よ。昨日ひーちゃんが帰ってきたときびしょびしょに濡れてたでしょ? ってことは傘がなかった。傘がないとすれば手段は1つ。駅までバスに乗ってそこから徒歩。だけどひーちゃんは携帯電話を持ってないから、職員室か図書館の時刻表でバスの来る時間を確認する必要がある。職員室のは基本的に先生しか見ないし、時間を潰したいなら図書館の方がやっぱり無難だよね。で、昨日の担当はそらだから、何かあるとしたらそこしかないなって思って」
……敵わないな。びしょ濡れになって帰っただけでそこまで推測できるなんて。
「概ねその通りです。まぁ、森川先輩に直接何か言われた訳じゃないですけど」
「う~ん、そうね。ひーちゃんがそらを苦手なことは知ってるけど、悪い子じゃないのは確かだから」
幼馴染みならそう言いますよね先輩。
実際悪い人じゃないんだと思いたいんだけど、思ったことをハッキリと言うキツイ性格がどうにも苦手というか。
まぁ、委員会以外で顔を合わせることなんてまずない。それにその委員会にしたってカウンター当番が被らない限り直接お世話になることなんて……。
「あ、そうだひーちゃん。6月の当番割、司書室に置いとくから、また見といてね」
「……わかりました」
この人のことだから、また何かしらお節介を仕掛けるんじゃないかっていうのは想像に難くない。
どうしようかな。今月の当番、森川先輩とペアだったら。
雨に煙る市街地をバスに揺られながら登校する。
「次ハ、東濃飛騨校前、東濃ヒd――」
ピンポン
「次、止マリマス」
部活組と一般組の登校時間のちょうど中間にあたるこの時間に利用する学生は少ない。自分が降車ボタンを押すまで誰も押す気配がなかった。
バスを降りて無色透明のビニール傘を広げると、途端に灰色へと染まった。灰色のグラデーションが漂う傘はちょっぴり自分の心中を映し出しているみたいでいい心地がしない。
早歩きで横断歩道を渡り、校門へ、昇降口へと急ぐ。
昇降口を入ってすぐの下足室で上履きに履き替え、教室に向けて廊下を進む。
雨の日の朝はいつもと雰囲気が違う。
まず屋外を使えない部活が室内で朝練をするから、その声が校舎内に反響してとても賑やかだ。それ故に普段は消灯してる教室や廊下の蛍光灯が灯っていて変に明るい。
やっぱり雨の日は好きじゃない。
片頭痛がするっていうのもあるけど、好きな景色まで塗り替えられるから。
教室の前にはいつもの先客が困った顔をして待っていた。
「おはようございます、あかりさん」
「おはよう……清水くん」
「いや~参りましたね。今日は硬式野球部がミーティングで教室を使うそうで」
「そう……」
「これじゃあ、フルートも掃除も難しいかな」
「そう……だね。でもたまにはいいんじゃないかな」
「え?」
「ほら、ときには休まないと」
「うーん、残念だなぁ……新曲、用意してきたんですけど」
「また、明日の楽しみになるよ」
やや落ち込み気味の清水くんに月並みだけど慰めの言葉をかけていたそのとき、教室の中から大声がした。
何とも運動部らしい文字にならない短めの声。
多分、ミーティングが終わったんだろう。
「お、千明に日立~。お前ら揃って早いな~」
真っ先に教室から出てきたのは神田くんだ。
「神田先輩、お疲れ様っス!」
「はーい、お疲れ~、あ、お疲れ様っス!」
後輩たちの挨拶に答えつつ、先輩たちには挨拶をする。ずいぶんと器用なことをしているように見えた。
「今日は雨だから朝はミーティング、午後は筋トレ3種目3セットで終わりだってよ。ついてるわ~。龍神様に感謝だわ~」
先輩、同級、後輩合わせて一通りの野球部御一行様を見送ってからもう一度話始める神田くん。
そっか、雨が嫌な人もいれば、雨が救世主の人もいるんだ。
今の神田くんの表情、干ばつに見舞われて数カ月ぶりの雨に奇跡を見た百姓と同じ顔をしているんじゃないかな。
「だからおれ、今日機嫌がいいんだ。何か手伝うぞ」
意気揚々とそう宣言した後に「ただし宿題以外な」とつけ加える。
「ハハハ……じゃ、じゃあ、教室掃除を手伝ってください」
「おっけー、雑巾がけなら任せろ」
「いや、掃き掃除から」
さすがの清水くんも神田くんの早朝ハイテンションにやや顔が引きつっていた。
3人で黙々と掃除をしながらふと思った。
これだから独り占めって言われるんだと。
うーん、仕方がない。まずはどちらかにこの場からご退場してもらおう。
「そういえば神田くんはさっきの野球部軍団と一緒に行かなくてよかったの?」
「アイツら朝飯食べに行っただけだから。ぶっちゃけ朝飯なんて購買で何か食べておけばいいわけで。それにおれにはアルティメットギガホットドッグがあるから大丈夫」
「朝っぱらからそんな油きっついのよく食べるね。買いに行かなくていいの?」
「実はあれが売れたのは初日だけで、それ以降は低迷気味らしいんだよ。何でなんだろうなぁ~、うまいんだけどさぁ。ま、だからこれが終わってからでもいいんだ」
「あぁ、そう?」
外がカリッなら野菜の詰め合わせの方が良かったな……っと、この際アルティメットギガホットドッグのことは置いといて、行ってくれないか。
こうなったら私の方から退場するしかなさそうだ。
「ごめん、ちょっと私お手洗い行ってくる」
「了解です」
「妖怪です」
「子音が行方不明……それじゃあ」
いつものことながら、しょうもないギャグを一瞬で考えられるなんてそれはそれで才能だよ。
そんなことを考えながら逃げるようにトイレへと駆け込んだ。
「日立、今日はすぐ帰るのか?」
神田くんにそんなことを尋ねられたのは終礼の前、帰り支度をしているときだった。
「え? まぁ……図書館に行って軽い用事を済ませたら帰るつもりだけど?」
「いやぁ……さ、おれ……今日はトレーニングだけだって言ったじゃん。すぐ終わるから一緒に帰らね?」
「うん……ま、いいけど……じゃあ、図書館で待ってるね」
珍しいこともあるものだ。
これまで下校時間が近いことはあっても「一緒に帰ろう」と誘われることはなかった。
何でまた今日に限ってとも思ったけど、言い訳のストックを持ってなかったからつい二つ返事で了承してしまった。
それでも、最終下校時刻と終礼のちょうど間くらいの時間になればそんなに人にも見られないか。朝はだいぶ警戒したんだけど、よくよく考えてみたら直接言われるまでは気にする必要もなかったように感じる。
とりあえず忘れ物の確認だけして終礼が始まるのを……あれ? こんなものあったっけ?
教科書やノートに紛れて見覚えのない茶封筒が一封。それもまたずいぶんと古いものだ。
封を開けようとしたその瞬間にチャイムが鳴り、荘川先生と藤原先生がやってきて終礼が始まる。
とりあえず封筒も一緒に鞄の中に入れて後で見ることにした。
終礼の後、予定通り今日も図書館へと足を運ぶ。
先々週借りた『銀河鉄道の夜』の貸出期限が迫ってることもあり、その延長手続きをしようと思ったのと、今朝雫先輩が言っていた今月の当番表を確認するためだ。
カウンターの番をしていた後輩に延長手続きをお願いし、一言、二言交わしてから司書室に入る。
「うわ、やっぱりか……」
脊髄反射でため息が漏れる。
今月の放課後当番のペア、やっぱり森川先輩とだ。しかもよく見ると慌てて書き換えた痕跡があるし……朝のあの話しぶりからやるだろうなとは薄々予想してたけど、本当にやってくれたな。
雫先輩のお節介……確かに正しい方向へ導いてくれているんだろうけど、ちょっといばらの道すぎませんか?
さて、結果がどうであれ要件も終わったし、神田くんが来るまでどうしようか。
まぁ、進まない読書の続きをするのが無難だよね。さすがにそろそろ銀河鉄道に乗らないと夜が明けてしまう。
近くの椅子に座って本を読もうとしたとき、ふと壁にかけてあった鏡に映った自分を見て二つ結びに髪を束ねたゴムが緩んでいることに気づく。
座ったまま左右のゴムを外して左から結びなおす。そして左ができたら今度は右も。
ところが今日はとことんツイてなかった。
右を結んでいる最中にブチッという不吉な音を立てる。
これはゴムが切れたなとなんとなく悟って結ぶのをやめ、目の前でゴムを広げてみると案の定何の抵抗もなく広がった。
いいか。ゴムは安物だし、どうせ帰るだけだし。
すでに結んだ左側もほどいてその状態で司書室を出る。
それから椅子に座って神田くんが来るまで憂鬱な気分を抑えながら待機。
10分くらい待っているとTシャツ姿で神田くんが現れた。
どうやら今日はこれで帰るつもりらしい。
彼が部室の鍵を職員室に返却すると言い出したのでついでに私も職員室に顔を出す。
「しつれーしまーすっ。部室の鍵を返しに来ました~」
物々しい雰囲気の職員室に神田くんの陽気な声が響き渡った。
私は彼の半歩後ろに立って何となく職員室を見渡す。
いつもいる先生の周りにスーツを着た見慣れない人がちらほら。多分全員教育実習生だ。
荘川先生のところにも藤原先生ともう1人。キリっとした藤原先生とは対照的に大人しそうな印象の風貌だ。荘川先生の指導下でってことはあの人も教え子なのかな――あ、目が合った。
「……っ!?」
私はとりあえず無言でペコリと頭を下げる。
けれどその人の何かに引っかかるものがあったらしい。
ひどく驚いた様子で何かを呟いた。
何て言ったのかはよく聞こえなかったけど、口の動きからおそらく3文字の人の名前。
「ふ、文香?」
今度ははっきり聞こえた。荘川先生の「おい滅多なことを言うもんじゃないよ」という声も合わせて。
「おいよせっ!! おいったら!!」
「あやのん!」
荘川先生や藤原先生の焦り具合や、(あやのん)と呼ばれた人の殺気立った様子から何か良からぬことが起こることは容易に想像がついた。
そして――。
2人の制止を振り切って猛烈な勢いで迫ってきたその人は私の両肩を掴み、前後に激しくゆすっては「文香、なぜあなたがここにいるの?」と問いただしてくる。
当然、自分には身に覚えのないことだし、無間地獄を彷徨うかのような血走った眼差しで見下ろされるしで軽いパニック状態。「えっと……どちら様ですか?」
喉を振り絞って恐る恐る尋ねると小声で「別人?」と口にし、徐々に殺気に満ち溢れた表情から元に戻って行く。
「え、あ……その……ゴメンナサイ。昔の友達にあんまりにも似てたものだからつい……」
「その子は”今の”俺の生徒だ。日立っていう苗字だからアイツには関係ないよ」
荘川先生が静まり返った中そう説明しながらこちらまで来ると、教頭の方を向いて「お騒がせして申し訳ありませんでした」と頭を下げる。
教頭は驚愕のあまりフリーズしていたが、荘川先生の言葉に「あぁ、そうだな。もう昔のことだからな」と独り言のようなことにぶつぶつと言いながら仕事に戻って行った。
「驚かせてすまなかったな日立。この人は三条綾乃先生と言って藤原先生と同じ東育大の4年生なんだ」
簡単に紹介をしてくれる荘川先生。
左手でネクタイを緩めながら、反対の手で白髪が混じった頭をポリポリと掻くその姿はちょっとくたびれている様に見えた。
「それにしてもビックリしたわ。朱鶴が言った通り本当によく似てるんだもの」
三条先生が険しい口調で言いながら藤原先生の方を見る。
「そうね……でもあたしが見たときは髪を束ねてたから、そうでもないかなーって思ったんだけど……こうやって髪を下ろしてるのを見るとホントにそっくりね。ねぇ、日立さん。あなたの親戚に松風という姓の人はいない?」
「はぁ、やめとけやめとけ。もう5、6年も前になるんだ。薄れた記憶の断片がたまたまそう錯覚させてしまっただけだろう」
大きくため息を吐きながら荘川先生は言った。そして「ほらほら、先生の仕事はまだあるんだ」とそれぞれがそれぞれのうるべき行動をとるように促すと、足早に職員室の奥にある自分の机に戻って行った。2人の教育実習生もどこか納得がいかないという表情を残しながらも荘川先生の背中を追っていく。
「あのぉ、おれ、完全に忘れられてるんですけれども……」
その場に取り残された私に再び声をかけたのは神田くんだった。
釈然としないけれど、深追いをしてもどうしようもないし、それが良くないことだってある。
このまま無かったことにして、必要なことにだけ悩みながらいつも通り過ごそうと思った。
でも現実はそうさせてくれなかった。
寮に戻って謎の茶封筒を開けると、その中から出てきた数枚の便箋には辛らつな言葉が綴ってあった――『自分は人間を殺めました』と。
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