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第5章 オバケの行方
寮室の表札の下にあるプレートが不在になっていた。
どうやら雫先輩はまだここにはいないようだ。
でもその方が都合がいい。
ただでさえお人好しでお節介な雫先輩にこれ以上心配事があるとバレたらあの人も受験勉強どころじゃなるから。
私は鞄の中から古びた封筒を取り出す。
宛名はなし……差出人は――。
封筒をひっくり返すと裏面には差出人の名前がちゃんとボールペンで書かれていた。
その人物の名前は松風文香。
ついさっき聞いたばかりの名前に私はゾッとした。
教育実習生の藤原先生と三条先生、そして当時の担任を務めていた荘川先生と繋がりが深かったであろう人物が差し出した封筒。
全身を寒気が駆け抜けた。それは血液すらも凍らしてしまいそうなくらい強烈な寒気だ。
この現象は理性が「絶対に中身を見るな」と必死に警告しているからに違いない。
でもそれに従うことはできなかった。
なぜならその理性を好奇心が上回ってしまったから。
どうしてたかが2週間の縁しかない教育実習生にそこまで警戒されているのか。どうして松風文香に似ているだけであそこまで顔色を悪くされればならなかったのか。それが気になって仕方がなかったんだ。
恐る恐る封筒を開けると四つ折りの便箋が3枚入っていた。
『単刀直入に書く。
恥の多い生涯を送ってきました。
自分には人間の営みというものが見当もつかないのです。
嬉しさも、悲しさも、楽しさも、辛さも、愛おしささえも――人間なら誰もが有しているであろう感情が。」
『自分の理想とありのままの現実を書く。
自分は人間になりたいが故に仮面を被りました。
馬鹿で間の抜けた、まるでアヒルのような人間を演じることで、自分も普通の人間であると思われたかったのです。
そうすればいつかは白鳥になれると、明日こそは心の底から笑っていられると、ただただ愚直に妄信しておりました。
けれど嘘を突けばつくほど、自分の心はすり減ってゆくばかりでありました。
結局自分は詐欺師に過ぎなかったのであります。』
『目の前の結果を書く。
自分は人間を殺めました。
ほのかに雪の舞うあの日の夕方。
鈍い音と同時に高く跳ね上がった人の身体は、綺麗な弧を描いて地面に叩きつけられました。
肉が押しつぶされ、甘酸っぱいような鉄のような香りのする真っ赤な血が、黒いアスファルトを徐々に侵食していくのを、空っぽの心で眺めておりました。
――全部、アナタが悪いんだよ――
頬に浴びた返り血を制服の袖で拭いながら呟いておりました。
この言葉の意味はよく分かっておりません。
ほとんど衝動的に投げかけたように思われます。
自分のような咎人を、もう神様は助けてはくれないでしょう。」
『S²について書く。
ただ、S²だけはその聡明な眼差しによって自分の道化を見抜いておりました。
――君は嘘をついている――
S²は自分の目を見て言い放ちました。
その刹那、足元に大きな穴がぽっかりと空き、真っ逆さまに落ちていくような浮遊感を覚えたのです。
S²人間への求愛は罪なのでありましょうか?
危うい演技を続けてでしか人間界にいられないのは全て自分が悪いと言うのでしょうか?
S²は自分に道化をやめろと言いたいのでしょうか?
オバケであることを世間に晒し、石を投げつけられながら追われる罰を受けなければならないのでしょうか?
オバケであるが故の苦しみも恐怖も何もかも知らないS²は正しさという非情さで自分にぶつけてきたのであります。
自分はS²の正しさにのどが熱く震えるほどの憎しみを抱いたのです。』
『末路を書いて〆る。
あるときその人は自分に問いました。
君は本当に心底から愛をしているのかと。
古い木のにおいがするあの場所で自分はその問いに答えました。』
何……これ?
ちょっとやそっと病んでるってどころの話じゃない。
というか、よりによって何でその言葉を選ぶ。
最後の「君は本当に心底から愛をしていあるのか」の一文が最悪の瞬間を思い出させる。
人が人を好きになるとかならないとかそんなの本人の主観に任せるべきはず。それを『客観的』の名のもとに思い込みだけで突っ走って、結局互いに傷ついて。
オバケがどうというよりS²に対する反感が強かった。
だってあの時と状況がよく似てるから。
やっぱり見るべきじゃなかった。
好奇心は身を滅ぼすっていうのを目の前で見たはずなのに。
何も見なかったことにしよう。
「殺めた」とか「末路」とか書いてあるけど、それはあくまでこの便箋を書いた人物の問題であって私個人の問題じゃない。
何かの手違いで紛れ込んだこれは見た者として責任を持って処分するかないか。
「ただいま~」
封筒にしまうのと雫先輩が部屋に入って来るのはほぼ同時だった。
「あ、お疲れ様です」
右手に持っていた封筒をサッと身体の後ろにやる。
反射的にそうやって隠そうとしてしまったけど、この人にそれが通じるわけがなかった。
「ん? どうかしたの?」
「いや……えっと、何でもないです」
「ひーちゃんは嘘をつくのがとことん苦手みたいね。咄嗟に後ろに隠されて、そんな引きつった笑い方をされて気づかない訳がないでしょ?」
何でこの人はそういう所を見逃してくれないのかな。もうちょっとさ……鈍感でもいいと思うんだけど。
「……知りたいですか? それが大変なことに巻き込まれるかもしれなくても」
「まぁ、知りたいかな」
「先輩の好奇心はよっぽどです。それで身を滅ぼさないでくださいね。猫ですら好奇心に殺されるんですから」
「うーん、好奇心とはちょっと違うかな」
「……」
「かわいい後輩の悩む顔を見たくないから訊くのよ。でも言いたくなかったら言わなくてもいいわ」
「……」
この人は……本当にお人好しだ。
私はそんな雫先輩に黙って封筒を差し出す。
「『人間失格』のようなそうじゃないような……」
便箋を全て読み終えた雫先輩は首を傾げる。
「あの太宰治のですか?」
「冒頭の「恥の多い生涯を送ってきました。」って所なんかはまんま『人間失格』の印象を受けたわ。だけど……文体が安定してないから一概に言い切れないけれど」
悲観的価値観に基づて自分の人生を語ったこの文章。確かに言われてみたら
『人間失格』に通づる部分があるようにも思える。
「それにしてもこの便箋、そこそこ古いわよね。どうしてこんなものが?」
「実は――」
私は今日あったことを素直に話した。藤原先生や三条先生のことも含めて全部。今の雫先輩にはもう何もかも見透かされていて、嘘なんか全く通じないような気がしたから。
「あー、なるほどね」
話の中でどこか腑に落ちる点があったんだろう。大きく2度頷いた。
「その三条って人、わたしのクラスなのよ。で、何かねー、今日は落ち着きがなかったからちょっと変だなって思って。まるで何かに怯えてるみたいだった。まぁ、今の話を聞いたらちょっと繋がったわ」
「結局のところその答えは松風文香次第ですか。S²やあの場所も」
「気になる?」
「気になりません」
松風文香が荘川先生も含めた3人の平常心を奪うくらいに影響を及ぼす人間であったことは明白だ。それが全く気にならないって言ったら嘘になるけど、知ったところで何の得にもならないから。
「そっかぁ……松風文香ねぇ……どこかで耳にした名前なんだけどね」
「この話はやめませんか?」
「そぉね……やめましょうか。とりあえず忘れて笑顔ね笑顔!」
「は、はぁ……」
やめようとか言ってもな……すぐに忘れられる訳じゃないし、とりあえず時間に委ねるしかないか。
あ、そういえば明日から衣替えだ。
松風文香どころじゃない。
衣替え問題を先に解決しなきゃいけないんだ。あと森川先輩と当番問題。
はぁ……考えることが多すぎて吐くため息の量が減らないな。
嫌なことは続くものだ。
ヘアゴムの予備が底を突いた。いつも2つ使っていたヘアゴムが今日は1つしかない。仕方ないから今日は首のあたりで軽くまとめる髪型にするか。帰りにどこかお店に寄ってヘアゴムを調達しないと。
学生手帳の曜日欄に「ヘアゴム購入」と記入する。
そこでまた重要なことを思い出す。
今日は6月1日――ということは衣替えの日。
未開封のセーラー服を開けてタグを取り、袖を通してみる。
うわぁ……ばっちり出てる。
肘のケロイドが腹が立つほどきれいに出ていて、もうむしろ笑ってしまいたいくらいだ。
悩んだあげく私は長袖のブラウスに袖を通して寮を出た。
青い長襟のセーラー服に紛れて1人だけ白で短い襟のブラウス。それが目につかないわけもなく、さっそく生徒指導の先生に捕まってお小言を頂戴した。
「日立……何が言いたいかわかるか?」
「わかりません」
「じゃあ、今日からわかってくれ。衣替えが終わったら基本的に夏服。うちの夏服はセーラーなんだ」
何だ基本的って……例外がないんだから基本も何もないだろうに。
心の底から怒りが湧いてきた。
多分生徒指導とか学校に対するものだけじゃない。
陰口を言うクラスメイトや自分たちの過去に引きずり込もうとしてきた教育実習生、タイミング悪く切れたヘアゴムとかそんなのが全部入り乱れた感情だ。
「……」
「わかったか?」
黙ったまま先生を一瞥すると、改めて強い念を押してくる。
「……はい」
これだってどうせ「はい」以外の選択肢はないんだ。たった1つしか与えられない答えが無性に反抗心を煽る。
けれどちょっと我に返って考えて見るとやっぱり合理的じゃない。
「今日は特別に許すが明日は夏服で来ること。行ってよし」
眉間にしわを寄せ、鋭い視線を落とす先生は最後にそう吐き捨てた。
「おはようございます。あ、髪型変えたんですか?」
「おはよう……ちょっとね、ヘアゴムが切れちゃって……」
教室に行くと清水くんが教室掃除を始めていた。
前回の窓から吹き込む風がそっと彼や私を撫で、まだ2人しかいない教室を満たしていく。
いつもの光景だ。
けれどもこのいつもの光景に私が入ってしまうことで安寧が脅かされるなら、自分はこの場から去ることを選ぶ。
「ゴメン清水くん。今日文化委員の当番でさ。行かなくちゃいけないんだ」
「あ、そうでしたか……じゃあ、用意した新曲また次の機会ですね」
寂しそうに笑う清水くん。
彼や神田くんの笑顔と優しさを引き換えにしないと、悲劇を繰り返すだけだってわかったから。異物にはそれが正しい答えだから。
逃げるように図書館に駆け込む。
朝当番なんて咄嗟に出た嘘だ。嘘を吐いて逃げるだけでそれっぽく見せたものだから、もし相手が雫先輩だったら絶対誤魔化せなかった。
鞄の中から昨日の封筒を取り出す。
自分には何かの呪いにしか見えない封筒。
捨てようと思ってるあの封筒。
でもやっぱり気になるあの封筒。
何の気の迷いか、もう一度その中身を読み直す。不思議と今日はスッと頭に内容が入ってきた。
そっか――もしかしたら私も松風文香と同じなのかもしれない。私は集団の中にポツンと存在する異物なんだ。
どこに行っても自分はそうなんだ。それをどうにかしようと嘘をついて切り抜けようとして……。
今はS²が現れないことを祈るしかないのかな。
締め切られたカーテンの隙間からわずかに差し込む光。でもまだ図書館全体は薄暗さの方が勝っていた。
「あかりさん……ちょっといいですか?」
昼休み、いつものように1人でご飯を食べていると珍しく清水くんが話しかけてきた。いつもだったら隣の野球部のエースなんだけど、その彼は昼休みになると同時にお弁当そっちのけでどこか行っちゃったから。
「いや……悪くはないんだけど、今じゃないとダメ?」
周囲の視線が刺さる。特に例のクラスメイト達のがね。
それで断ろうと思って――。
「今じゃないとダメなんです。一緒に来てください!」
清水くんが叫ぶ。
そしていきなり右手首を掴んでグイグイと引っ張ってきた。
「え、どうして……ちょっと!」
訳がわからないまま彼の背中を後を足で追う。
清水くんが理由も話さずこんなことをするなんて今までなかったから、とにかくどうすればいいのか気持ちのやり場に困る。
「ここです」
彼に案内されたのは屋上。
風雨に晒されてかなり汚れているから座ってお昼にするには向かないこの場所。全体的に汚いからここに来る人なんて滅多にいない。にもかかわらず常に解放されている謎の空間。一説には屋上と室内を仕切るドアの鍵が壊れたとか。
「おー、早かったな千明」
思わぬ先客が貯水タンクの裏からおもむろに現れる。
「こんなものじゃないですか? 神田くん」
それはお弁当に手を着けずに消えた野球部のエース。
「え、どういうこと?」
「ここなら誰もいません。何があったか話してください」
「え? ……いやあ、何も……私は普通だよ?」
「そんなわけないです。ここ最近のあかりさんは変です。何か大きなものを1人で抱え込もうとしているような、そんな印象を受けます」
雫先輩だけならまだしも、清水くんや神田くんにも普通じゃないってバレてたのか。
だけど私は――彼らがS²になってほしくないから。
「えっと……何の話かな?」
話をはぐらかす。
「全部吐いて楽になった方がいいんじゃないか?」
刑事ドラマみたいな台詞を口にしたのは神田くん。
いつもニコニコしてる清水くんや飄々としている神田くんにこうまで言われるとやっぱり嘘をつき通せない。
「まぁ……色々あってね――」
とりあえず話せるところまで話した。
教育実習生と松風文香の話は除いて。
私は嘘をつくのがヘタクソだな。
どうやったら内心を探られにくくできるだろうか。もうわからないや。松風文香に訊きたいよ……そのお道化術を。
「なるほどなぁ。ヘアゴムが切れたのはショックだな。よし、おれと千明でお金出すから、そこそこ丈夫なの買って来いよ。どうだ千明?」
「うん、上出来ですね」
「いや、ダメでしょ。高校生でお金のやり取りは良くないよ神田くん。それに私は大丈夫だから」
ごく一部を除いて色々話させておいて一番同情するのがヘアゴムなの? っていうのは正直あった。あとはお金のやり取り。これも後で問題になるから。
「2人は私がちょろまかすとは思わないの?」
「「全然」」
即答だった。
「そこまで言うんだったら千明にお金預けるから、一緒に行けばいいじゃん」
「いや清水くんに悪いよ」
「平気ですよ。あかりさんは自分のことだけ気にしてください」
「……ありがとう」
「じゃあ千明、おれの分預けたぞ」
「任せてください」
「ちょろまかすなよ」
「そんなことしませんよ」
「あと……日立を泣かすなよ」
「当たり前です!」
いい友達を持った……と言えばいいのかな。
だけど、その優しさにたまらなく胸が締め付けられるのも事実。
どうしよ……。
なんだか深みにはまってもがけばもがくほど抜け出せなくなってるような。
「いらっしゃい」
おばあさん店主が濁った声で迎えてくれる。
店内はちょっと昭和っぽい雰囲気(?)が漂う落ち着いた雑貨屋さんだ。
「駅前にこんなお店があったなんて知らなかったな。清水くんよく知ってたね」
「前、親戚の子が来たときにここで買ってたんですよ」
さすが清水くん。
学校だけじゃなくて親戚周りへもサービス精神が旺盛だ。
「どうしようかな……ただまとめてるだけだから、そんな派手なのは……」
飾りとかついてて純粋にきれいだなって思うけども。どうにもそれを自分の髪でって考えるとな……合わないし惹かれない。
「あ、これなんかどうです?」
彼が差し出してきたのは赤色の玉飾りのついたヘアゴム。しかも半透明の透き通った赤でかと言ってそこまで派手なキラキラ感がある訳でもない。
「とってもきれい」
一目ぼれに近しかった。
「じゃあ、これにしますか?」
「……うん」
価格もそこまで高くなくて、これならお願いしても心がそこまで痛まなくて済みそうだったのも、これにした理由だ。
「あかりさんがどんな辛いことにも打ち勝てるようにって気持ちを込めときますね。僕の分も神田くんの分も。それから何かあったら相談してくださいね」
だから優しすぎるんだって。イカロスと太陽は混ぜるな危険なんだって。墜落しちゃうから。
そんなことをされたら自分もいつか依存しそうで……でもそんな彼らがいるから生きていけるのかな?
2人にもらったヘアゴム――大切に使います。
寮に戻ると雫先輩が電気もつけず、ちゃぶ台のノートパソコンに真剣な眼差し向けていた。日も暮れて薄暗くなった部屋の真ん中で、パソコンのバックライトに照られる先輩。青白い光と共に顔が浮かび上がってるのがちょっと不気味だった。
「電気くらいつけましょうよ」
「あら、お帰り。遅かったわね」
相当集中していたみたいだ。電気をつけるまで自分が入ってきたことに気づかなかった。
「まぁ、寄り道してましたから」
「あれ? ヘアゴム買ったんだ」
「買ったというか……ご厚意で頂きました」
「へぇ~、いい物貰ったね」
だから早いって。何でこうも人の変化を感じ取っちゃうかな。この人はエスパーか何かか?
「そうですね。本当に助かりました。それじゃあ、作業の邪魔してすみません。晩ご飯を食べてくるので――」
「ちょっと待って! ご飯を食べたらあるものを見てもらつもりだから、それだけ覚悟しておいてね」
「覚悟……ですか。それは見ないといけないものですか?」
自分が傷つくかもしれないなら見ないという選択肢が欲しいところ。
けれど度が過ぎるほどお人好しな雫先輩のことだ。何もせずに時間に委ねて問題を解決するなんてことは絶対にさせてくれない。それは教育実習生の件もそうだし、森川先輩にしたってそうなんだ。
それにしたってタイミングが悪い。
せっかく気持ちが良い方向に向かおうとしてるんだから、そのまま今日1日を終わらせてくれたっていいのに。
「うーん、まぁ、見なくてもいいけど、見た方が謎の答えに少しだけ近づけるかな」
「図書係の当番表ならもう見ましたよ?」
「そらのことじゃないわよ。そっちはそっちでまた追々ね」
やっぱり覚悟して見る以外に選択肢はなさそう。
「……わかりました。じゃあ今見ます」
どうしても避けられないなら後回しにするだけ無駄だ。
それだったらさっさと見て楽になろう。
見た結果がどうであれ相当グロテスクなものじゃなければ食事が喉を通らないなんてことはないはずだから。
「そう、わかったわ。じゃあこれ――」
雫先輩は頷くとノートパソコンを私の方へと向ける。ちゃぶ台の前でちょこんと座り、パソコンに正対すると画面には何年か前の新聞記事が表示されていて――。
『飛州日報(2012年6月11日 朝刊)
東濃飛騨高 重体の生徒、昨夜死亡
おととい、同校の第二書庫で腹部にナイフが刺さった状態で発見された松風文香さんが昨夜、搬送先の病院で亡くなったことがわかった。それに伴い学校は記者会見を行い、村瀬校長は「生徒の尊い命を守り切れなかったのは大変遺憾であり、学校、ひいてはグループ全体の危機管理体制の甘さを露呈することになった」と述べながらも「いじめ等は把握していない」といじめがあったかについては否定した。松風さんの自宅の机からは遺書らしきものが発見されており、警察は自殺と断定して今後捜査を進める方針だ』
――そんなことってあるの?
記事を読み終えたとき、息が止まりそうになった。
言葉を失ったまま、画面に映し出された記事をただ茫然と見つめる。
そりゃあ、雫先輩も覚悟がいると言う訳だ。
「そういう反応をするとは思ってたんだけどね。だけどいずれは分かることだから。分からなきゃいけないことだから。ショックなことほど早めに知っておくべきかなってそう思ったのよ」
申し訳なさそうに言う。
けれどその言葉が優しすぎて、残酷すぎて……。
「何で……こんなことになるんでしょうか?」
「え?」
あ、マズい。泣きそうだ。
そう思ったときにはもう遅かった。
急に目尻が熱くなり、ツーっと水滴が頬を伝う感覚がした。
もうダメだ。ちょっと最近悪いことが続きすぎて、情緒不安定でどうしようもない。
「何で私がこんなことに巻き込まれないといけないんでしょう。私はただ……
普通に生きられればそれでいいのに。誰にも干渉をせず、誰にも干渉されず、それでいいじゃないですか。それ以上なんて何ら望んでません。なのに、どうして災厄ばっかり降ってくるんでしょうか。こんなんじゃ……前に向こうと思ったって向けないじゃないですか!」
こんなこと、雫先輩に訴えたってどうにもならないことは知ってる。でも神田くんの言う通り吐かないと楽になれないから。中途半端に残しとくとかえってしんどいだけだから。素直に吐かせてください。思ってること全部。
「わたしは他心通を持ったエスパーじゃないから、ひーちゃんの全部を知ってるわけじゃないわ。それは肘のケロイドに秘められた過去もそうだし、今起こってることもそう。でもね、それでもね、辛い真実を知らないと前に進めないことだってあるのよ。大丈夫。止まない雨なんてないから。だから――」
「なら……それなら、前に進めなくたっていいです。例えそれが道理的に間違ってたとしても、雨は……止みます。時間が経てば……安寧くらいは得られるはずです」
「ひーちゃん……確かにこの現状で一番辛いのはひーちゃんに他ならないわ。それは絶対そう。わたしでもないし、ましてやあなたから松風文香の幻影を見てしまった3人でもない。そんなことくらいよく分かってるわ」
「……」
「ねぇ、ひーちゃん。この謎に直面したとき、正直どう思った? 悪夢、理不尽――そんなとこかな。でもね、たった一瞬でも答えを知りたいとは思わなかった?」
確かにそうだ。全く興味がなかったかと言い切ってしまうとそれは嘘。間違いなく封筒を開けたあの瞬間、場を一瞬で凍りつかせてしまう松風文香という存在が何なのか気になって止まなかった。だけどこんなことになるなら、いっそ――。
私の気持ちとは裏腹に雫先輩は続ける。
その口調はいつも以上に柔らかい。
「真実を知りたい。その気持ちをここで終わりにしてしまってもホントに良いの? そりゃあ、時間が経てば教育実習生もいなくなるから、このことだって自然消滅で終わるでしょうけど……。でも何もせずに時間が過ぎるのを待つのも、それはそれでものすごく酷な話よ。それこそ拷問のような……だったら、どうせ苦しいならちょっとでも悪あがきをして答えを見つけてみない? 松風文香問題を解くだけで、ひーちゃんは今まで以上に強くなれると思うの」
返事を返すわけでもなく、ただ殺風景な天井を仰ぎながら左腕を両目の上にかぶせて嗚咽する。
人前でこんな風に泣いたのっていつ以来だろう。少なくとも両親の葬式のときじゃない。もっと昔だな。
そんな私に雫先輩はそれもう何も言わなかった。慰めることも、責めることも。ただ黙ってそばに座ってくれているだけで、それ以上は特に何も。
今、先輩はどんな顔をしてるかな?
いや、考えなくても想像はつく。
多分、ときおり見せるあの困ったような悲しいような、そんな表情をしているに違いない。
雫先輩は優しい。優しいけれど、だからこそ胸がたまらなく苦しくなる。
でも本人の言った通り、この人はやっぱりエスパーじゃないし、そもそも悩みを聞くのが専門のカウンセラーでもない。たった1つしか歳の違わないだけで自分と同じ高校生なんだ。ましてや今年受験なのに、勉強そっちのけで寄り添おうとしてくれるんだから。こんなにも後輩想いの先輩に自らの望む答えと寸分も違わない答えを求める自分が情けない。
結局、私が泣き止むまで先輩には傍にいてもらった。
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