第1章 神田くんの忘れ物

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第1章 神田くんの忘れ物

 新学年が始まって1カ月ほどが経ったころのある日、日直の仕事で放課後遅くまで教室に残っていた。  西日が差し込む放課後の教室は、その陽に照らされて全体があでやかな朱色に輝く。ほとんどの生徒が帰宅し、静寂に包まれた教室はまるで時が止まってしまったかのようだ。  1日の中でこの時間帯が一番好きだ。沈んでいく太陽が最後に放つ輝きが、唯一自分の心を救ってくれるような気がするから。  とはいってもそろそろ帰ろうかな。本当はもう少し夕日と静寂に浸っていたいのだけど。それでもそろそろ最終下校時刻だ。  そう思いながら日誌とリュックを持って立ち上がったそのとき、廊下の方から聞き覚えのある歌声が。  「そーだったらいいのになぁ~♪」  次第にその歌声は教室に近づいてきて、教室の前でピタリと止む。 「そこにいるのは日立(ひたち)か?」  力いっぱい扉を開けて私の名前を呼ぶ坊主頭の男子生徒。本当に何かいいことでもあったんだろうか。妙に上機嫌だ。 「こんな時間に来るなんて珍しいね神田(かんだ)くん。今日の部活は?」 「サボった!」  そんな満面の笑みで自慢することかな。まぁ、きっと彼のことだから本気で言ってないんだろうけど。じゃなかったら校舎内を堂々と歌いながら来たりしないよね。どうせ本当のことじゃなさそうだなと思ったから「本当は?」と訊き返す。ちょっとそっけない言い方になったのは、一番好きな雰囲気を一瞬で変えられたからその腹いせだ。 「何だつれないなぁ。まぁ、いいや。なんと今日は……オフでーす!」   あ、なるほど。だから機嫌がいいのか。ってもしかしてこのノリ……ずっと続く? もう最終下校も近いんだし、さっさと用事を済ませてもらってお引き取り願おう。 「それで? 要件は?」 「ん?」 「教室に来た要件。オフだったんなら、普通はもう下校してるでしょ」 「あぁそれなー。実は物理の教科書とノート忘れちゃってさ~。明日小テストなのにさぁ~。困るよね~」 「外で待ってるからなるべく早めにね」 「ね~」  忘れてたなんてよく言うよ。先週、置き勉が見つかって教科書類を全部没収されたのに、今週になった途端にまた再開するなんて。よっぽど神経が図太いのか鋼のメンタルを持ち主ってところか。どっちにしても褒められたものじゃないな。 「(わり)(わり)ぃ。お待たせ」  教室のすぐ外で待っていると、ほんの1、2分くらいで帰ってきた。物理の教科書とノートを抱えて。 「今度ジュースでも奢るからさっ。置き勉の話は内緒だぞ」 「口止め料に130円も……ほんとによくやるよ。でもジュースはいいかな。その代わり見つかっても責任取らないけどね」 「日立~お前は神か!」 「神格化されてもなぁ。別に何かしたわけじゃないんだから」 「それじゃあ、おれ部室寄ってから帰るわ」  元気よく廊下を走って行く彼の背中を見送りながら「オヤスミ」と呟く。  それにしても不思議な男だな。  神田結人(ゆうと)――10ミリに切り揃えられた坊主頭がトレードマークのクラスメイトで、言動や顔つきは少し子供っぽいところがある。けれども彼は東濃(とうのう)(だい)飛騨(ひだ)高校硬式野球部のエースピッチャー。しかも昨夏、今春と2期続けてチームを甲子園に導いている。そんな彼はわかりやすいところも多いけど、わからないところも多い。  さてと、私も早く教室を閉めて帰らないと。  右手に持っていた少し長めの鍵を鍵穴に差し込んで、右に半回転。カチャッと音がしたら抜いてちゃんと閉まっているか手で確認する。それで開かなければ鍵を職員室に持って、日誌と一緒に担任へ提出すればそれで日直の業務は終了だ。  懐中時計を取り出してみると5時49分を表示していた。鍵と日誌の提出に時間なんてかからないから6時には下校できるかな。  そんなことを考えながら廊下を歩いていると、まだ真新しい茶封筒が落ちていた。神田くんが落としていったんだろうか? 拾ってみると切手、宛先、差出人は一切書かれておらず、封もされていなかった。中に便箋が入っているっぽいが、勝手に見るのも気が引ける。とりあえず明日彼に訊いてみよう。それで違ったら先生に渡せばいいや。    翌朝、ホームルームが終わってから1限が始まるまでの空き時間に神田くんに茶封筒について訊くと、案の定彼のだった。 「拾ってくれたのか。ありがと!」  結局中身は見てない。けれど神田くんの反応から結構大事な物だったみたいだ。そこで私は思い切って封筒の中身について尋ねる。 「ところでその中身って何なの?」 「ん? あぁ、監督さんがくれた㊙練習メニューだけど……見てないだろーな?」  中を見てないか尋ねる神田くんの声は少し低く、表情もやや険しかったから正直驚いた。去年から同じクラスだったけど、こんな彼は見たことがなかったから。そりゃあ、私が知らないだけかもしれないけど。 「え、いや……見てないけど」 「そっか。なら、いいんだ」  神田くんはすぐにニッと笑い、いつもの表情へと戻った。 「そんなに大事なものなの?」 「あったりまえだろ。㊙なんだから」 「それはそうだけど……」  練習メニューにしても少し神経質じゃない?――というのが本音だ。それとも練習メニューの管理ってこれくらい厳重にするのがワールドスタンダードなんだろうか。  どこか腑に落ちないところはあったけど。でもたぶん、これ以上何を訊いてもきっと同じことを言われるか、話をはぐらかされるだけだろう。  そこで別の話題をすることにした。 「神田くん、物理のテストは大丈夫そう?」  昨日物理の教科書を持って帰ってたんだから、それなりに勉強はしたんだろう。今回の範囲はそんなに広くはないし、一夜漬けをすれば及第点くらいは取れるくらいのテストだった気がする。  そう思ってこの話題を振ったのだけど、神田くんはそれを耳にした途端、机に突っ伏してぼやき始めた。 「日立~、何でテストなんてあるんだろうな」  あ、察しです。さすがに一夜漬けだときつかったか。 「なんかゴメンね。お詫びと言ったらアレなんだけど、お昼休みにできるかぎり教えるよ」 「ホントか日立!」  一瞬でガバッと起き上ある神田くん。  つかめないところも多いけど、わかりやすいところも多い。彼となら話していても飽きないし、中学時代後半のように人畜無害を演じる必要もない。だから本当に楽だ。 「まぁ、私が理解できてる範囲限定だけど」 「それでもありがてぇ」  神田くんと話をしながらふと窓の外に目をやると、グラウンドの隅で葉桜が初夏の風に揺れていた。
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