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ハッと目を開けるとまず視界に真っ白い天井が入り込む。それから背中に感じる重力、ほのかにかおる薬品のにおい、遠くから聞こえる部活の営み。
段々と鮮明になって来る身体の感覚に自分が保健室にいることを確信する。
けれどその理由までは見えてこなかった。
ついさっき瞬きをするまで私は図書館でカウンターのお守りをしていたはずだ。
天井を眺めながら考えていると、突然その視界が遮られ代わりに雫先輩の顔が間に割って入って来る。
「おはよっ!!」
「っ⁉」
まさかここで雫先輩のドアップが現れるなんて考えもしなかったから、驚きのあまり心臓が止まりそうになった。
「えっと……近いです」
「あらそう?」
乗り出した顔を引っ込め、丸椅子にちょこんと座る。
「顔色は悪くなさそうだし、もう大丈夫そうね」
「どうして私が保健室にいるんでしょうか?」
「呆れたぁ。倒れてたんじゃない」
「まったく記憶にないです」
「まぁ、そりゃあしょうがないか。でも驚いたわ~。カウンターに帰ってみたら床に倒れ込んでたんですもの」
そう言われればそうだったけ。ちょっと眠気と頭痛が酷くて……。それにしても床に倒れ込むって尋常じゃないな。疲れてたかな? 根を詰めて何かをした覚えはないけど。それか片頭痛? 今日は天気が下り坂でずっとジメジメしてたし。
まぁ、何にせよ体調管理にはもうちょっと気をつけなければ。
「それで……雫先輩がここまで運んでくれたんですか?」
「そうしようと思ったんだけど肩を持って立ち上がろうとしたら尻もちついちゃって。やっぱり文系に力仕事は向かないねぇ。タイミングよく男の子が本を返しに来なかったらどうなってたことか」
両手を方の近くで軽く広げ、やれやれという感じの表情で首を左右に振る。
「手伝ってくれたんですか」
「えぇ、そうよ。すごく優しそうでかわいらしい顔つきでね~。礼儀正しいし、良い子だったわ~」
保健室まで運ぶのを手伝ってくれたという男子のことを雫先輩は絶賛している。
優しいくてかわいらしい顔つきで礼儀正しく、放課後の図書館に現れる……か。それってもしかして――。
「その男子って普2-Cじゃありませんでした?」
もし普通科2年C組だとしたら、その人物はクラスメイトになるから当然私の知っている人物になる。仮に商業科や家政科だったとしたらちょっとわからない。
「そうねー。言われてみれば普2-Cのバッジを付けてたみたいだけど……あ、そういえばひーちゃんのクラスメイトって言ってたわ!」
ビンゴ。
その人物は間違いない、うちの学級委員の清水千明くんだ。
彼は普段、終礼の挨拶と同時に忽然と姿を消す。故にクラス内からは帰宅部のエースとして扱われているんだけど、例外として学級委員の活動日と日直の日には放課後遅くまで学校に残っている。そんなときによく図書館に現れては本を借りて行く。
「やっぱりですか。たぶんその人、清水くんですね」
「その清水くんとは結構イイ感じなの?」
「はい?」
思いがけないことを訊かれてポカンとする。きっとそのときの自分の表情を言葉にするなら鳩が豆鉄砲を食らったような顔だったに違いない。
「いやーね、凄いひーちゃんのこと心配してたから……ね? 彼氏だったりするのかな~って」
「いや……彼は学級委員ですから。それにクラスメイトが倒れてたら心配もするでしょう」
「それだけ……とか言いつつ~みたいなのあるんじゃない? このこの~隅に置けないね~」
「他に何があるんですか? 彼が何を言ったか知りませんけど、帰宅部のエースはモテモテなので私には縁のない話です」
「あははは……ごめんごめん、そんなに怒らないで」
「別に怒ってなんかないです」
「ふふふ、清水くん? もそうだったけど、ひーちゃんもやっぱりかわいいね」
「そろそろやめませんか? 本当に怒りますよ?」
全くこの人は――。
中学後半から他人との距離間隔を縮めすぎないように細心の周囲を払ってきたつもりだ。でもどうしても些細なやり取りからそれが綻びてしまうことがある。
もちろん誰の前でもそうなるわけじゃない。
むしろごくごく限定された人の前でしか起きない現象ではあるけれど。
数は少なくても、やっぱり素の自分が露呈するのはよくないし、露わになる度にまだまだ「私は合理的じゃないな」って思う。自分の感情を曝け出しても良いことなんて何もなかったから。それどころか神経がすり減っていくだったから。
だからこそ私は「合理的じゃない」って考える。
本心をっ隠して、誰にもそれを悟られないように機械的に会話の強弱をつけられたら楽になれるんだけどな。
もっと自分を隠せる仮面は無いだろうか。
もっと感情を抑え込める鋼の心はないだろうか。
もっと上手に嘘はつけないだろうか。
カーテンの隙間から差し込む斜陽の光は私に何も言ってはくれない。
校舎を出て校門に向かってまっすぐ歩く。
最終下校よりは少し早く、まだ下校をする生徒の数は疎ら。
痛みの残る頭部と荷物を抱えて数キロ先の寮まで徒歩で……か。少し億劫だなぁ。
市営バスならすぐだけど、残念なことに財布の中には福沢さんと樋口さんしかいない。
こんなことなら早めに崩しておくんだったと遅すぎる後悔をする。
まぁ、次への戒めになったと思って今日は歩こう。夕日に初夏の風を浴びながら帰寮するのも何ら悪くはないだろうから。
校門を左手に曲がればバス停があって……あって……あれ? 誰かいる?
顔は逆光になっていてはっきり見えない。
服装は黒のスラックスに同色の学ラン。間違いなく東濃飛騨の制服だ。直帰組が帰るには遅すぎるし、部活組が帰るには早すぎるように感じるけど。
足元に目をやると指定鞄と横長の楽器ケースが。
あぁ……ね。もう顔を見なくてもわかった。
普2-Cの学級委員兼帰宅部のエースさんがバス待ちをしてるのね。
さり気なく通り過ぎようと思ったら向こうもこちらに気がついた。
「あ、あかりさん。体調は良くなりましたか?」
「ありがとう、清水くん。保健室まで運んでくれたんだってね。でももう大丈夫だから」
相変わらず敬語を交えた丁寧な話し方。
初めて出会った時から全く変わらない。
変わらないと言えば頭のてっぺんにくせ毛のある短髪もそうだし、いつ見ても素直で優しそうな顔つきをしているところもそうだ。
実際誰にでも気を配れる優しい人だし。故に学級委員に推挙されるのも納得できる。加えて成績優秀でスポーツもそれなりだからいよいよ言うことがない。非の打ち所がないって言葉がこうも当てはまる人物もそんなにいないんじゃないかな。
「あかりさんはこのまま歩いて帰るんですか?」
「まぁ、そうなるかな」
「えっと、それじゃあ、駅までご一緒しますよ」
「いいよいいよ。清水くんは実家通いでしょ? しかも古川だったら逆方面だよね。そんなの悪いよ」
彼の実家が隣町なのは知ってる。
祖母の家が古川にあって、彼とはこっちに来てから中学が同じだった。
私は祖母の勧めで学校近隣の寮に入ったが、彼自身は地元からの通学を選んでいた。
「大丈夫です。駅から列車乗ればすぐなので。それよりももしまたぶり返しちゃったりして道端に倒れた方が大変ですから。それに――」
「それに?」
「いえ、何でもないです。とにかく僕のことはいいので、あかりさんは自分のことだけを気にしていてください」
「……」
私は「それに」の続きを多分知っている。
誰にも分け隔たりがないと言ったけれど、清水くんはどこか私に過保護なところがあるんだ。イケイケドンドンの神田くんや聖母っぽい雫先輩とは違う感情が。
清水くんのそういう気持ちはとっても嬉しいし、純粋で一生懸命な姿を見てると気持ちに応えたい思うことだってある。
でも清水くんは太陽みたいな人だから。
彼は知ってるかな――イカロスは太陽に近づきすぎたから海に落ちちゃったんだってことを。
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