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清子と千都香を請われるがままに送り出し、和史と仕事のような雑談のような話をしていたら、電話が鳴った。
「はい」
『あ。 先生ー?』
多分そうだろうと思った通り、千都香からだった。聞き慣れた声が電話を通すと妙に甘えたふうに聞こえるのが、むず痒い。
「んだよ」
『先生、キスは好きですか?』
「あ゛ぁ?!」
作業中に出たせいで手に持ったままだった包丁を、落としそうになる。
「ちょ!危ないよ壮介」
「悪っ……」
『キス、柔らかくて食べ頃だそうで、お勧めらしいんですけど、』
和史に包丁を取り上げられた。こちらの動揺は伝わらないのか、千都香の声は変わらずに柔らかく耳に響き続ける。
『先生が嫌なら、やめようかなぁ? って』
嫌では無い。
どちらかと言うと、好きだ。
そう言いそうになって、踏み止まる。
その答えは、有らぬ誤解を与えるのではないか。千都香は誤解しなくとも、聞いてない振りをしつつ絶対に聞いているだろう和史は、大喜びで積極的に誤解する。
千都香は、何を考えているのか。キスキス言ったり、柔らかくて食べ頃などという言葉をみだりに口にしたり、全く思慮が浅過ぎる。壮介は別になんとも思いはしないが、喋っているのは店の中だろう。周りで誰が聞いているかも分からないのに。
『千都ちゃん!イカ! イカが安いわ!!』
突然、清子の嬉しげな声が聞こえた。こちらの音は聞こえていなさそうなのにあちらの音はよく聞こえるのは、スマホと黒電話の性能の差か。
『え、イカですかー? 油はねません?……先生?』
「う」
『キスにしていい?』
に、が妙に小さく聞こえたので、脳内で音量を補った。
「……あー……好きにしろ……」
『ん、わかりました。キスにしちゃいます』
そういう意味じゃない。絶対にそういう意味じゃないと己に言い聞かせて絞り出した返事になっていない返事に、千都香は機嫌よく相槌を打った。
『じゃあ、買い終わったら帰りますね!ありがとうございました。美味しいキスあげますから、楽しみにしてて下さい!』
「っ……」
イカとエビも買っちゃいましょ! と清子が言っているらしいほがらかな声を残して、通話は切れた。
「どうしたの? 千都ちゃんから?」
げんなりしている壮介への当て付けの様に明るく、和史が聞いてくる。
「……ああ……魚の好みを聞かれた……」
「へえ! さすが偏食師匠の弟子だね、細かい配慮」
「……要らねぇわ、そんな配慮……」
その配慮のせいで、耳元でキスキスキスキス囁かれたのだ。消耗したことこの上ない。
「天ぷらにする魚なんて限られてるよな? 何だって同じだろうに……女って奴はなんであんなに食い物に細かいんだ?」
「うーん……でもさ?」
和史は微笑みながら、柄を向けた包丁を手渡して来た。
「壮介は食に興味が無さ過ぎるから、千都ちゃん足したら丁度良いんじゃない?」
「人間に人間を気軽に足すな!!!!」
壮介は八つ当たりの様に筍に包丁を入れ、バリバリと手荒く皮を剥いた。
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