case. 0

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 いまだにあの頃のことを思い出すと気分が沈み、身体が小刻みに震えだす。 『現在朝七時ですが、起床しますか? もう一度寝ますか?』 「ああ、起きるよ。報告書をまとめないと」  ハルの落ちた気分を慰めるように、メリーは小鳥の鳴き声や金管楽器の軽快な旋律をもったりとした口元から紡ぎだした。  メリーに胴体はない。  彼女は壁掛けのアニマルヘッド型ロボットで、寝室のベッドの枕側の壁に設置されている。  警察の仕事を退職後、度重なる悪夢により不眠症となったハルを心配した知り合いが半ば強引に取り付けたのだ。  起床して目を開けるとまず羊の下顎が視界に飛び込んでくるので、最初の頃は逆に変な夢を見そうだと思ったものだ。  しかし枕から脳波を感知して、悪夢を見始めた段階で起こしてくれるという安眠サポート機能は侮れないものだった。  事実、ハルはメリーのおかげで少しずつ回復していった。不眠の主な原因は、悪夢を見ると金縛りのようになり自力で夢から醒めることが出来ないという恐怖心だったらしい。  彼女の機能は悪夢を検知して起こすだけではない。室内で聴こえる音声からハルの好みを把握して、入眠時や起床時などその時々にふさわしい癒しの音を届けたりもしてくれる。  悪夢そのものから解放されたわけではないが、彼女の存在は少なからずハルの心を救った。 『ワン! ワン!』 「お、サンキュー、ポチ」  一階の郵便ポストから朝刊をとってきたのは、ペットロボットのポチだ。  つるりとした金属製のボディに中途半端にリアルな柴犬のイラストがペイントしてあり、初めて見た時は正直ちょっとキモイ……と思ったものだ。  そのうえ製作者の「飼い犬が朝、新聞を持ってきてくれるっていいよね」という謎の理想を体現すべく作られたポチは、ビルの四階にある自宅部分から一階の郵便受けまで単体で行けるように、玄関のドアの前で後ろ脚が人間の成人男性程度の長さに伸びる。  前足の先端を細かく分岐させて器用に鍵を開け、二本足で颯爽と階段を降りる。そして大人の胸元ほどの高さの郵便受けから朝刊を引っ張り出し、やはり二本足で階段を昇って戻り、何食わぬ顔で犬の形状に戻って無邪気な鳴き声とともにハルに新聞を渡すのだ。  その一部始終を見てしまった時には、汗だくの中年男性がファンシーな着ぐるみに着替える瞬間に立ち会ってしまったかのような気まずさに襲われたものの、この三年間で思いがけず愛着が湧いてしまい、今やすっかりペットヒーリングの効果を感じてしまっている。慣れとは恐ろしい。 『電話です! 雪村冬也(ゆきむらとうや)から電話です!』  高血圧なハイトーンで話し始めたのは、ポチとともに寝室に入ってきたセキセイインコ型ロボットのライムだ。  バサバサと羽を揺らして飛んできたライムは、ふさふさとした緑色の毛を蓄えた胸を自慢げに張ってハルの目の前に着地した。 「はいはい、出るよ。ビデオ通話だよな」  今も尊敬してやまない雪村からの連絡を嬉しく思いながらも、ライムに応える声は浮かない。   『佐倉くん、久しぶり』  ライムの胸の毛を取り外したところに埋め込んである小型スクリーンに雪村の姿が映し出される。相変わらず真面目そうな、凛とした誠実な顔をしている。 「お久しぶりです。……すみません、さっき起きたところで」  通話を始めてから思い出したが、自分はまだ寝巻だ。それに引き換え雪村は当然のごとくきっちりとしたスーツに身を包んでいる。  ――着替えてから折り返し電話すればよかった……。  ライムの目のモニターを通して向こうに届いているであろう自分の姿は、雪村に見せるには申し訳ないくらいだらしがない。 『構わないよ。最初にビデオ通話にしたいって言ったの僕だし』  柔らかく微笑みかけられて、ハルは恐縮しつつも小さく安堵した。  犯罪者に向ける厳しい視線とは対照的な、部下想いの優しい眼差しも変わっていない。  雪村はハルより十歳ほど年上で、警視正という役職でありながら、叩き上げの自分たちにも気さくに話しかけてくれる人だった。  キャリア出身のエリートなのに、彼は自分の立場に胡坐をかくことなど一切ない。積極的に捜査の指揮を執り、自ら犯人の取り調べにも出向く正義感の塊のようなところにハルは強く憧れていた。 『変わりはないかな?』 「はい。おかげさまで。……記憶は戻らないですけど」  だからこそ、雪村との通話は嬉しいけれど辛かった。  今も第一線で活躍する雪村の役に立てない自分が歯痒い。  きっと雪村はハルと同じで、被疑者死亡で処理されてしまったあの事件の結末に納得していないのだ。  自分の記憶が戻れば、あの事件の真相が分かるかもしれない。彼もそう思っているから、ハルが警察という組織を去った今も定期的に連絡をくれるのだろう。    入院中なんて、事件当日の記憶だけが戻らないハルを心配して何度も顔を見に来てくれていた。  探偵業を始めてすぐの頃も事務所まで足を運んでくれたし、今でも数カ月に一度はこうしてビデオ通話で近況の連絡をしてくれる。  最初の頃は忙しい雪村が自分を気にしてくれることにプレッシャーを感じて、役に立たない自分に焦って「ちょっと思い出しかけているような……」と言ってしまったこともあった。  そんな嘘はすぐに見破られ、かえって彼に困った顔をさせただけになってしまったけれど。  理知的で洞察力の高い雪村は、取り調べでも日常会話でも、相手の表情からなんでも読み取ってしまうのだ。  彼がビデオ通話でかけてくるのは、ハルにそんな嘘を吐かせないためなのかもしれない。  ハル自身も雪村に誤魔化しは通用しないと実感したので、それ以降はたとえ役立たずでも思い出せないことを正直に伝えている。 『そんな顔しないで。大丈夫、無理に思い出そうとしなくていいんだ。僕は佐倉くんの元気な顔が見れただけで十分だよ』  記憶が戻らない悔しさに顔を歪めると、彼は画面越しにまっすぐこちらを見て励ましてくれた。  通話はいつも彼のこの言葉で終わる。無理に思い出そうとしなくていいんだ。彼にそう言われるたびに、どうしようもない焦燥感や無力感がその一言でほんの少しだけ救われるのだ。
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