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6/3 そらまめ
絶対にあるはずなかったのに、公久さんとの約束より優先すべきタスクが出来てしまった。
「そちらの待合室にてしばらくお待ち下さい」
うちの柴犬、イブが死んだ。おじいちゃん犬だったこともあり、それなりに覚悟はしてた筈だった。けど、まさか朝起きたら息を引き取っていたとは思わなくて、別れの挨拶さえできなかったのがどうにも歯痒かった。
『全然気にしないで!』
『大事な家族だもんね』
付き合って4年になる公久さんは、外務省の職員。激務を抱えた公務員だから、土日はほとんど仕事。月に片手分しか休みは取れない。しがないレストラン店員の私とはなかなか休みが合わなかった。それでもずっと好きでいられるのは、イブをきちんと【家族】と呼んでくれる、この人のやさしさが私を何度も助けてくれたから。
ベンチの背に体を預け、目を閉じる。小さな頃からずっと一緒にいたイブ。久々の2人きりの食事も、イブが死を迎えた今ではどうにもちゃちな約束にすぎない。
母はパートだから休めないし、イブの亡骸を火葬場へもっていくのは私の仕事になった。
固くなったイブの体を車に乗せるとき、猫のミミとロシアンがじっとこちらを見ていた。イブのベッドを占領したり、容赦なく猫パンチをしたり。自由な2匹もこのときばかりは、私の泣きはらした目に気が付いていたと、勝手に思っている。
イブと一緒に火葬してもらうのに、そらまめを畑からとって持ってきていた。手を鼻に近づけると少し土臭かった。
そらまめが大好きだったイブ。小さい頃、父が酒を飲むとき、つまみのそらまめをよく欲しがっていたっけ。ネットで調べたら多少は全く問題ないが、あげすぎには注意するようにと書いてあった。だから幼い私は少しづつ、いち、にって、数を数えてあげていた。
昨晩、私は酒を飲んだ。そらまめもあったけどイブは全く見向きもしなかった。最期に食べさせてあげればよかった。最期だって分かっていたならもっといっぱい撫でて、そらまめもあげて、お気に入りのおもちゃもそばにおいて、公久さんとのLINEばっかり見てないで、着ていく服を1時間も悩んだりしないで____
私はトイレに向かった。手を洗いたかった。どうしても消えない匂いが私を、どうしようもなく惨めにする。
足がだんだんと早くなっていく。いつもそう。私は無理にでも何かしていないと後悔に襲われて動けなくなる。
ペットを飼うということは、幸せを買うことだと思っていた。お金も手間もなんてことない。
トイレの手洗い場で、鏡越しに自分と目が合った。真っ赤な目をした自分と。幸せを買うと、その分別れもついてくる。家にはミミもロシアンもいる。私は最低でもあと2回、この別れに、後悔に溺れなくちゃいけない。あの子たちもいつかは死ぬ。失って初めて気づくような、そんなバカな大人になりたくなかった。
ポケットのスマートフォンが鳴った。
『今から行ってもいい?』
こんなに優しい彼でも、きっとこの後悔の海は消せない。それでいい。それでよかった。
『イブちゃんに最後のお別れさせてほしい』
溺れる私を見守って、イブに手を振ってくれれば、それでいい。
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