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5/28 ミートソースパスタ
運命の赤い糸で首を絞められた。そのときのことを今でも、パスタを食べるたびに思い出す。こっぴどく振られたときの話だから誰にも言えないし、どれだけ泥酔しようと言う気もない。
「映画みたいね。満月の夜にパスタなんて」
トラットリアの屋外テーブル。彼女の茶髪は夜の明かりに少し透けている。そういう染め方があるのよと以前笑っていた。
「同じパスタを食べて口同士がくっついちゃうの。映画で見るたびに憧れてた」
「今も好きなの?」
「まさか。昔の話」
もう映画なんてしばらく見てない。彼女は疲れた顔でくるくるとフォークを回す。さっきから回すだけで口にはしない。桃色の唇には水の入ったグラスしか触れていなかった。
「あの人、奥さんとしか映画見たくないんだって」
彼女が愛した男には妻がいた。彼女を愛する俺には金も地位も、何もないのに。
フォークを置いて、やけに重いワイングラスを持つ。
「……とんだロマンチストだなぁ。反吐が出そう」
「しばらく何も食べてないわよ。反吐どころか食欲もなくなったし。こんなんじゃ何にもなれないわ」
彼女は手を膝に置く。ただまっすぐにこちらを見る。何もかも引き寄せるほど美しい、大きな瞳。俺はこの視線に弱い。
「一応、母親になる予定なの。なれるかもわからないけど」
ぽつり。こぼれた言葉が沈黙を作る。ひゅっと何かが消えていくような苦しさに襲われる。苦しみの根源は、自分の喉仏だった。
「どうしたらいい? どうしようもないんだ、俺」
父親が俺じゃないことくらい、俺が一番よく知っている。無意識のうちにフォークを持ち、パスタを巻いていた。
ぽすり。彼女の唇に、パスタを巻いたフォークを当てる。慰めにも何もならない俺の腕を、彼女は微笑みながらゆっくりと払った。
「もう映画はいいの。あの人は奥さんとしか夢を見れない。私は、ただ現実を見て母親にならなくちゃいけないの」
「母親ってのは夢を見ちゃいけないの?」
「わかんない。わかるわけないじゃない。なったことないんだから」
グラスを持つ彼女の腕は、前より随分細くなった。
「どうしようもないくらい生きていけない。傍にいないと。君と、『君の』子供の傍にいたい」
「ありがと。もういいよ」
「好きです」
「馬鹿」
「知ってるさ」
その夜、彼女の分のパスタは俺が全部食べた。何も口にしないまま別れた。本心も、これからの未来のことも。
「さよなら」
パスタで首を絞められて、きっとあの日、俺は死んだ。
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