最期の時を

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最期の時を

「母さんね、思い切って買ったのよ。」 話があると呼び出されて久しぶりに実家を訪れた。母の口から出た意外な言葉に驚かされる。わざわざ娘を実家に帰らせてまで話したかった内容が、買い物だなんて。小言を言いたくなる気持ちを必死でこらえて、母の話を聞いてみることにした。 「買ったって、なにを?」 その……、と母はどもり始めた。母がこんなに物事をすっぱり言わないことなど珍しい。 「添い遂げるお相手の方を、買ったのよ。」 ちょっと、なにを言っているのかわからなかった。ついに母もぼけ始めたのだろうか。 「お母さん、落ち着いて。」 「信じてないんでしょう?」 母は悲しそうに呟く。 「だって、簡単に信じられるような話じゃないもの。」 「そうよね。ちょっとあなた、来てくださる?」 母は二階へ向かって呼び掛けた。まさか、この家で一緒に暮らしているとでも言うのだろうか。母の言うお相手がもしも実在するのなら、ひょっとしたら母は騙されているのでは、と嫌な考えが脳裏に浮かぶ。  どんどんどん、とたしかに階段から音がする。鼓動の音がやけに鳴り響いている。 「はじめまして。」 現れたのは、母と年齢のそう変わらない上品な男性だった。 「あの、はじめまして。」 私は戸惑いながらも、なんとか返事をした。 「その、状況がよく飲み込めていないのですが……。」 「まだ、話していなかったの?」 男性は、母に優しく訊ねる。 「なんて言えばいいかわからなくて。あなたを買った、とだけ。」 「それじゃあ、困惑するのも当たり前だね。もっとも、本当のことなのだけど。」 彼ははにかんだような笑顔を見せた。 「まずは自己紹介しないとだね。僕の名前は、田中信彦です。きみは、翔子ちゃんだね。よろしく。」 田中さんの差し出した手を、私も握る。 「僕はこの歳になるまで70年間、独身で暮らしてきたんだ。だけど、あと残りの人生を考えたときに誰かに添い遂げてほしいと考えるようになった。それで、とある掲示板にこんな広告を出したんだ。この先の人生、添い遂げる相手を買いたい人はいませんか?って。」 「そうなの。私も夫が死んでから20年も、ずっと一人だったでしょう? あなたも出て行ってしまったし寂しくなってしまってね。そんなとき、彼の広告を見つけて、つい連絡をしてしまったってわけよ。」 母が、田中さんの言葉に付け加える。たしかに父が死んでからというもの、母を独りにしてしまっていたのは事実だ。ずっと寂しかったと思う。思わず納得してしまいそうになるが、この話は根本からおかしい。 「流れは理解したわ。でもね、買うってどういうことなの? 田中さんにお金を払っているというわけなの?」 「田中さんには、お金を払っているわ。なにかいるものがあったときに、少しずつ。」 「お母さん!」 「違うの。違うのよ。そのお金は、田中さんが私に預けた口座から引き出しているものだから、私のお金は実質少しも減っていないのよ。」 え……。私は言葉を失った。だとしたら、なぜ彼は買わないかと言ったのだろう。彼からすれば、買うという言葉はマイナスな表現でしかなかったはずだ。私の考え込んだ顔をみて、田中さんが付け加える。 「この歳になるとね、資産目当てで声をかけてくる女の人もいるんだよ。私もある程度の資産を持っているからね。だけど、私は純粋に同じ気持ちを持った人を探したかった。最期の時を、誰かと添い遂げたいと考える人を。だから、僕を買いたい人を募集したんだよ。」 田中さんは、たしかに嘘をついていないようにみえた。もし掲示板に書き込みをした人が彼じゃなかったら、母は騙されていたかもしれない。だけど、田中さんは純粋だ。この今まで私が出会った誰よりも純粋な心を持っている人だった。 「よかった、お母さんが素敵な人を見つけることができて。」 私は、気がつくと心からそんな言葉を口にしていた。
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