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2.
窓の景色が流れるように動き出した頃、紗江の目の前にグリーンのチェックのハンカチが差し出された。
「使って。風邪引くといけないから」
彼のほうも、紗江ほどではないにしても、そこそこ濡れていた。そんな彼を見て一瞬ためらったが、ありがたく好意を受けることにした。
「ありがとうございます。お借りします」
紗江の手に渡ったハンカチは、手の汚れを拭っただけで、あっという間に汚れてしまった。
「『カノン』はどうして知ったの。あの店は一切取材を受けてないから、知っている人は知っているけど、意外と知られていないし。場所も結構奥まったところにあるからわかりにくいしね」
紗江があの店を知ったのはほんの偶然だった。
それは…。
「…迷ったんです」
どこをどう行けば会社の近くで迷うことができたのか、今考えてもよくわからない。確かに考え事をしてはいたが、余所見をしていたわけでもない。焦って道を聞こうと飛び込んだのが…。
「『カノン』だったんです…」
焦っている紗江を見て従業員も気の毒に思ったのかもしれない。昼のあわただしい時間が終わった後で疲れているだろうに、カノンの従業員は嫌な顔一つせず、大通りまでの道を丁寧に教えてくれた。しかし、見慣れた道まで出てみると、意外とたいした距離ではなかったのだが。
その後、改めて、そのときのお礼の意味も込めてランチに行ってみたのだが、味にも値段にもびっくりしてしまったのだった。
「ははは。なるほどね。それは以外だったな」
笑うと彼の右の眉尻が少し下がった。
笑われているというのに、紗江はちっとも嫌な気がしなかった。
「そろそろですけど、この先はどこへ?」
運転手の声に窓の外を眺めると、先のほうに高校のブロック塀が見え初めていた。
「その先の信号を左に曲がったすぐのところでいいです」
車は指示通りに信号を左に折れ、数十メートルほど進んで静かに止まった。
「家の前まで行かなくてもいいの?」
車の扉が静かに開く。雨はまだ降っていた。
「ええ。道も細いし、一方通行ばかりで車だと大変なので。それに、ここからすぐですし」
ここからなら2・3分でアパートに着く。今さら濡れてもたいした事はない。
降りようとした紗江に、彼は足元に置いていた傘を手渡した。
「使って。自分は家の前までつけてもらうから」
紗江は素直に差し出された傘を受け取った。車から降り、傘を開く。男性用なので、少し、大きかった。
「それじゃ、運転手さん、お願いします」
車の扉が軽い音を立てて閉まった。
「あっ!待って」
私、何も、知らない。
窓が静かに下りた。彼が振り込む雨にもかまわず身を乗り出す。
「どうしたの?忘れ物?」
忘れ物と言われて、紗江は手に持ったままのハンカチに目を落とした。
そういえば、これも、借りたまま…。
「あの、傘とハンカチが…。お名前と連絡先、教えていただけますか」
彼は「あぁ」と言って、思い出したように紗江の手に握られているハンカチを見た。そして、スーツの内ポケットから名刺入れとペンを取り出した。慣れた手つきで名刺入れから1枚、名刺を抜き取ってペンで何かを書いた後、それを紗江に渡した。
「ペンで書いたほうがプライベートの携帯番号だから」
紗江は手にした名刺にすばやく目を通した。
「それじゃ、気をつけて」
彼は軽く手を上げて、微笑んだ。
窓が閉まると、車はゆっくりと動き出し、緩やかに車線のレーンに戻っていった。
紗江は車が見えなくなるまで傘を差したまま、そこに立ち尽くしていた。
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