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 窓の景色が流れるように動き出した頃、紗江の目の前にグリーンのチェックのハンカチが差し出された。 「使って。風邪引くといけないから」  彼のほうも、紗江ほどではないにしても、そこそこ濡れていた。そんな彼を見て一瞬ためらったが、ありがたく好意を受けることにした。 「ありがとうございます。お借りします」  紗江の手に渡ったハンカチは、手の汚れを拭っただけで、あっという間に汚れてしまった。 「『カノン』はどうして知ったの。あの店は一切取材を受けてないから、知っている人は知っているけど、意外と知られていないし。場所も結構奥まったところにあるからわかりにくいしね」  紗江があの店を知ったのはほんの偶然だった。  それは…。 「…迷ったんです」  どこをどう行けば会社の近くで迷うことができたのか、今考えてもよくわからない。確かに考え事をしてはいたが、余所見をしていたわけでもない。焦って道を聞こうと飛び込んだのが…。 「『カノン』だったんです…」  焦っている紗江を見て従業員も気の毒に思ったのかもしれない。昼のあわただしい時間が終わった後で疲れているだろうに、カノンの従業員は嫌な顔一つせず、大通りまでの道を丁寧に教えてくれた。しかし、見慣れた道まで出てみると、意外とたいした距離ではなかったのだが。  その後、改めて、そのときのお礼の意味も込めてランチに行ってみたのだが、味にも値段にもびっくりしてしまったのだった。 「ははは。なるほどね。それは以外だったな」  笑うと彼の右の眉尻が少し下がった。  笑われているというのに、紗江はちっとも嫌な気がしなかった。 「そろそろですけど、この先はどこへ?」  運転手の声に窓の外を眺めると、先のほうに高校のブロック塀が見え初めていた。 「その先の信号を左に曲がったすぐのところでいいです」  車は指示通りに信号を左に折れ、数十メートルほど進んで静かに止まった。 「家の前まで行かなくてもいいの?」  車の扉が静かに開く。雨はまだ降っていた。 「ええ。道も細いし、一方通行ばかりで車だと大変なので。それに、ここからすぐですし」  ここからなら2・3分でアパートに着く。今さら濡れてもたいした事はない。  降りようとした紗江に、彼は足元に置いていた傘を手渡した。 「使って。自分は家の前までつけてもらうから」  紗江は素直に差し出された傘を受け取った。車から降り、傘を開く。男性用なので、少し、大きかった。 「それじゃ、運転手さん、お願いします」  車の扉が軽い音を立てて閉まった。 「あっ!待って」  私、何も、知らない。  窓が静かに下りた。彼が振り込む雨にもかまわず身を乗り出す。 「どうしたの?忘れ物?」  忘れ物と言われて、紗江は手に持ったままのハンカチに目を落とした。  そういえば、これも、借りたまま…。 「あの、傘とハンカチが…。お名前と連絡先、教えていただけますか」  彼は「あぁ」と言って、思い出したように紗江の手に握られているハンカチを見た。そして、スーツの内ポケットから名刺入れとペンを取り出した。慣れた手つきで名刺入れから1枚、名刺を抜き取ってペンで何かを書いた後、それを紗江に渡した。 「ペンで書いたほうがプライベートの携帯番号だから」  紗江は手にした名刺にすばやく目を通した。 「それじゃ、気をつけて」  彼は軽く手を上げて、微笑んだ。  窓が閉まると、車はゆっくりと動き出し、緩やかに車線のレーンに戻っていった。  紗江は車が見えなくなるまで傘を差したまま、そこに立ち尽くしていた。
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