3.

1/1
前へ
/60ページ
次へ

3.

 アパートについた紗江は、何はともあれシャワーを浴びることにした。少し熱目のシャワーが雨の汚れも嫌な気分も洗い流してくれるようだった。  しまっておいた洗いたての部屋着に着替え、温かいココアを入れる。一口飲むとその温もりに全身の血が巡り始めたように思えた。  そして、ふと、目の前に置いた名刺に目をやった。  殿上、正樹。  会社名に役職名、会社の住所に携帯番号にメールアドレス。そして、最後に書き加えられた携帯番号。 『プライベートの携帯番号だから』  確か、そう言っていた。  時計を見るとあれから1時間ほどたっていた。もう、着いただろうか。  紗江は自分の携帯に手書きの携帯番号を打ち込んだ。  受話音がなってすぐ、相手の声が通話口から流れてきた。 「はい、殿上です」 「っ!」  紗江は思わず声が喉に詰まってしまった。  まさか、こんなに早く出るなんて!  びっくりしたのはそれだけじゃない。  声が、近い。  それは電話だから当然そうなるのだが、なんていうのか、この人、助けられた時も思ったけど、声が、よすぎる。 「もしもし?」  私ったら!  ともすればぼぉっとしそうになる頭を振って、紗江は自分を現実に引き戻した。 「あの、先ほどはお世話になりました。磯浦と言います」 「あぁ、無事に着いたんだね。よかったよ」 「本当にありがとうございました」 「気にしないで」  この人は、とても、優しい。最初からずっと気遣ってくれている。  でも、…。 「それで、お借りしている傘とハンカチをお返ししたいんですが、明日とかお時間ありますでしょうか」  早いほうがいい。そのほうが、引きずらない。たぶん。  なぜだか紗江はそんな風に思っていた。 「ん~、明日は、というか、明日から出張でしばらく戻れないんだ。いつ帰ってくるかもはっきりと言えないし…。困ったな」  そういえば、名刺には役職名にマネージャーと記載されていた。きっと忙しいに違いない。 「あの、私はお返しできるならいつでもお時間を合わせますが」  紗江は相手の言葉を待った。 「それなら、自分から連絡させてもらってもいいかな。この番号に連絡すればいいのかな」  紗江に断る理由はなかった。 「はい」 「あ、今さらなんだけど、名前、いそうら、何さんっていうのかな。差し支えなかったら下の名前も教えて欲しいんだけど」  断る理由は、ない。  ないのだが、ほんの少し躊躇った。 「他意はないんだ。携帯に登録するのに苗字だけっていうのは味気なくて、自分的にあまり好きじゃないだけなんだ」  確かに携帯に苗字だけが表示されるのは味気ない気がする。誰かもわかりにくい。その理由は理解できた。 「さえ、といいます。いそうら、さえ」 「いそは磯辺の磯?」 「はい」 「うらは浦島太郎の浦?」 「はい」 「さえは?」 「さは糸偏に少ないという字で、えは入り江の江です」  何かにメモでもしているのだろうか。ほんの少しの沈黙があった。 「紗江さん、か。綺麗な名前だね」  少し歯を見せて微笑むあの人が目の前にいて、すぐそばで自分の名前を呼ばれたかのようで、紗江は顔が熱くなるのを感じた。  と、その時。  電話の向こうからかすかに子供のはしゃぐ声が聞こえた。そして、それをたしなめる女性の声。  紗江は自らを追い立てるように一気に喋った。 「本当に、今日はありがとうございました。傘とハンカチはお返しするまで大事に預かっておきます」 「ははは。たいしたものじゃないから、そんなに気にしないで。それじゃ、また、改めて電話します」 「はい。失礼します」 「こちらこそ。それじゃ、また」  プツッ、ツー、ツー 『電話します』  2・3日後には連絡があるだろう。きっと。あの人は、そういう人だと思う。傘は広げて乾かしておいて、ハンカチは洗って、新しいハンカチをそえてお返ししよう。それで終わり。カノンで逢うことはあっても、私は月一しか顔を出さないし、もうあんなこともないだろうから、会釈はしても声を交わすこともないはず。  紗江は目の前の名刺に手を伸ばした。  だから、携帯にも登録しなくてもいいわ。 殿上正樹 090-15××-××××  さっと目を通した後、紗江は手書きの携帯番号が見えないように、名刺を裏返して置いた。
/60ページ

最初のコメントを投稿しよう!

93人が本棚に入れています
本棚に追加