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 早速、翌日の仕事帰りにはハンカチを買っておいた。そして、いつ連絡があってもいいように、傘と洗って綺麗にアイロンをかけたハンカチとラッピングされた真新しいハンカチを持って仕事に向かった。雨でもないのに男性用の大きな傘を持っているのは少し恥ずかしかったのだが。  もうすでにあの日から二週間を過ぎていた。  最近は晴れの日でも傘を持っていることに、あまり違和感を感じなくなっていた。二つのハンカチを入れている小さな紙袋も、気をつけてはいたのだが、いつも持ち歩くせいで少しよれてしまった気がする。  こんなに長い出張なんてあるのかしら。せめて2・3日かと思ってたんだけど。  登録番号以外を着信拒否にしてしまったかと、心配になって携帯を調べたこともあったが、そんなことはなかった。電話に気づかなかったらいけないと、心配して常に近くにおいていたが、あの人からの連絡は一件も入ってなかった。  さすがに二週間も過ぎると、記憶が薄れていくのがわかった。  そんな今日の天気はなんだかいまいちだ。  夕方から雨になるとの天気予報だったから、今日は自分用を含めて二本の傘を持ち歩いていた。 「降りそうだねぇ」  憂鬱そうな空を見上げて咲子がつぶやいた。  小さな会議室で手作り弁当を広げながら同僚の咲子とお昼をするのが紗江の日常だった。  カノンのことは、咲子には秘密にしていた。最初はこんな近くで迷ったという経緯を話すのが恥ずかしかったからなのだが、それ以降、言い出しにくくなってしまった。銀行に用があるからと、毎月の給料日のときだけ一人で外に出てカノンで食事をしていた。 「傘、例のやつと自分のと、二本も持ってるんでしょ。かさばるし、邪魔だよねぇ」  咲子にはあの日の出来事を話していた。  ただし、カノンでのことを除いて。 「んー、しょうがないよ。だけど、あの日は本当に助かったし」  空になった弁当箱を巾着袋にしまいながら、紗江も空を見上げた。  その時。 「紗江、携帯、鳴ってるみだいだよ」  咲子の声でバッグに目をやると、その中からバイブのくぐもった振動音が響いていた。いつまでも振動しているところを見ると、メールではなくどうやら電話らしい。慌てて携帯を見ると、表示されているのは人の名前ではなく誰かの携帯電話の番号のようだった。 090-15××-××××  これ、もしかして…。  紗江は慌てて電話に出た。 「も、もしもし、磯浦です」 「殿上です。磯浦紗江さんですか。連絡が遅くなってすみません」 「い、いえ…」  やっぱり、殿上さんだ。  やわらかいテノールの声が電話の受話口を通り耳から全身に響く。思わず体が震えた。 「どうしても連絡ができなくて。今からそっちの方へ帰るので、よければ今日、急なんですが、お逢いできればと思って。いかがですか?」  早いほうがよかった。紗江にとっては。 「はい、結構です。何時に、どこへお伺いすればよろしいですか」 「それでは、7時に『カノン』はどうですか。遅くなったお詫び、といってはなんですが、夕食、ご馳走させてください」 『カノン』の食事。それも、夕食。ディナー。  一度でいいから食べてみたかった。でも、機会がなかったし、それに。 「私はかまわないですが、あそこは…」  お昼のランチであの値段なのだ。ディナーになると…、紗江には想像もつかない。 「気にしないで。出張先でろくなものを食べてない自分が食べたいだけだから」  そんな紗江の気持ちを察したのだろう。少し歯を見せて微笑むあの人が見えるようだった。 「わかりました。それじゃ、7時にお伺いします」 「じゃ、7時に、『カノン』で」  電話が切れる直前、新幹線だろうか、アナウンスが聞こえた。今から帰ると言っていたから、きっとホームにでもいるのだろう。 「傘、返せることになったの?」  広げていたおやつのチョコチップクッキーを口に運びながら、静かに成り行きを見ていた咲子が聞いてきた。 「うん。連絡が遅くなったから、食事をご馳走してくれるって」 「ふーん」  咲子はじっと紗江を見ていた。 「な、なに?」 「ううん。ただ、うまくいくといいね」  咲子はまだ紗江を見ていた。 「な、何もないわよ。あるはずがないから。傘を、返すだけなんだし」  それにあの人には『いる』はず。  そう、あの時、確かに声が聞こえたもの。あの人にそういう相手がいないほうがおかしいと思うし。 「食事するだけよ。それで、終わり」  そう、それで終わり。きっと。 「そう。ま、いいけど」  咲子は最後のチョコチップクッキーを取り、口に頬張った。  紗江は今にも泣き出しそうな薄明るいグレーの空を見つめた。
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