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「あった」  なんとなく仕舞う気にもなれず、メイクボックスの横にずっと置いたままになっていた名刺を手にした。下のほうにメールアドレスが記載されているのを確認する。@マークの後を見るに、これが会社のメールアドレスなのだろう。 『殿上正樹 様 お疲れ様です。磯浦紗江です。先日はご馳走様でした。私のメールアドレスです。週末、お逢いできるのを楽しみにしています。 磯浦紗江』  文章を打ってはみたものの、読み返すとなんだか恥ずかしい。  これじゃあ、まるで、とても逢いたがっているみたいじゃない!でも、週末のことに触れないのもなんだか変な気がするし…と、随分悩んだ末、「お逢いできるのを」の部分を削除して送信した。  送信した後で時計を見ると8時半を過ぎていた。メールを送ろうと携帯と名刺を手にしたのが8時くらいだったから、ゆうに30分は文章に悩んでいたことになる。  結局、あれだけしか打ってないのに。  何をそんなに意識しているのだろう。どうしてこんなに意識してしまうのだろう。  自問自答しながら、名刺の名前を指でなぞってみた。 『殿上 正樹』  何も知らない。名刺に書かれていること以外は。  ううん。知ってしまったこともある。  時々、カノンにランチを食べに来るということ。  カノンのシェフは彼の同級生のお父さんだということ。  なんだかとても自然にエスコートしてくれること。  いつだって気遣ってくれること。  それから。  ふいに音楽がなり始め、思考が中断された。メールの受信に設定していたメロディだった。  メールを送信してから10分ぐらいだろうか。返信にしては少し早すぎる気がしたが、まさかとは思いつつ携帯を手に取りメールを確認すると、送信者の部分は名前ではなくアドレスが表示されていた。ということは、登録されていないアドレスということになる。  メールを開いてみると、件名には「殿上です」と表示されてあった。  メールが届いたことに気づいてすぐに返信してくれたのだろう。  でも、あのアドレスは会社用だといっていたから、まだ、仕事しているのだろうか。  紗江の疑問に対する答えはメールの中に書かれてあった。 『紗江さん、こんばんわ。わざわざありがとう。この時間ならもう帰っているのでしょうか。自分は職場にいて、まだ帰れそうにありません。だからといって、週末はこんなことはないから心配しないで下さい。ちなみに、このアドレスがプライベートのアドレスです。登録しておいて下さい。自分も週末が楽しみです。 殿上正樹』  やはりまだ仕事をしていたらしい。  忙しそうだとは感じていたが、やっぱりそうなんだと紗江は思った。週末は大丈夫だと書いてあったが、きっとあれは紗江を安心させるためなのだろう。そういう人だと、これまでの遣り取りから感じた。  紗江は、最初は登録するつもりなどなかったアドレスを、携帯に登録し始めた。  でも、登録してくれって書いてあったし。こう何度か連絡をとることになると、登録していないと不便だし。  自分自身に言い訳しながら登録を終え、紗江は先ほどのメールに返信した。 『お疲れ様です。早々の返信、ありがとうございます。アドレス登録しました。お仕事大変そうですね。あまり無理はしないで下さい。この週末でなくても私のほうは問題ありませんから』  また会う機会があること自体、考えてもみなかったのだ。いや、考えようとしなかった。こうやって連絡を取り合う事だって。だから、携帯に登録だってしようとしなかった。  なのに、なぜ。  思考を途切れさせるように、メール着信のメロディが鳴った。  忙しいはずなのに、思ったよりも早い返信が返ってきた。 『週末のほうは問題ないから、気にしないで。実は今休憩中で、軽く食事を取っていました。今から仕事に戻ります。また、連絡します』  仕事に戻るという事は、まだ、帰れないということなのだろう。忙しそうだというのは前回も感じていたことだが、いつもこれくらい、いや、これ以上に遅いのだろうか。  それよりも、返信はどうしたらいいのか紗江は悩んだ。  どのタイミングでメールを打ち切るべきなのか、紗江はそのタイミングを計るのがひどく苦手だった。自分から終わらせるのが悪いような気がして、中途半端な内容のメールを送ってしまうことも多い。そうすると、相手からさらにメールが返ってきたりして、さらにだらだらとメールが続いてしまったりする。そんなかなりの悪循環で、相手が、もう寝るから、というメールを送ってきた明け方までメールのやり取りを交わしたこともあった。  でも、今、彼は仕事だし、また連絡すると書いてあるということは、今からは連絡できないということだから、今返信して変に気を散らせてしまうよりも、送らないほうがいいんじゃないだろうか。 などと、返信すべきかどうか悩んだのだが、結局一言、お仕事頑張ってください、とだけ送った。
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