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 それは雨から生まれたもの… 「何を見ているの?」  正樹は後ろから紗江を抱きしめた。腰に回された腕に触れながら肩越しに正樹を見上げる。こうやって見ると彼の睫毛が意外と長いのがわかる。 「雨をね、見ていたの」 「雨を?」 「そう、雨を」  紗江は視線の先を窓の外でいまだに降り続く雨に向けた。  ある雨の日のことだった。  紗江はバッグを胸に抱きかかえていた。いつもならバッグの紐を肩にかけているのだが、今はそうしていない。なぜなら、肩にかけるべき紐が切れてしまったからだ。  今思えば、今日はそこからついてなかったのかもしれない。  満員電車で何かに引っかかりバッグの紐が突然切れてしまった。それを皮切りに、朝からいつも以上に機嫌の悪い上司にねちねちと果てしない嫌味を言われ、気分を変えて仕事を片付けようとした矢先に先輩の失敗の尻拭いを強引にさせられ、挙句の果てには時間がなくてお昼を食べる時間もなかった。それでも、なんとか定時には帰ることができたのだが。  極めつけが、この激しい雨だった。  先週の急な雨で会社においてあった置き傘は使ってしまい、そのまま家の玄関においたままだから、会社の置き傘はない。今朝に限って寝坊して天気予報を見なかったから、午後から天気が下り坂になるなんて聞いてもいない。だから、傘なんて持っているはずもない。コンビニで傘を買おうにも今日は財布も忘れて持っていない。ショーウィンドウの軒先を借りながら駅まで小走りで走るしかなかった。  雨宿りに立ち寄った本屋の軒先から恨めしそうに空を仰いでみたが、雨が止む気配は微塵も感じられなかった。今日は本当に嫌なことばかりだった。だからこそ、少しでも早く帰って休みたいと紗江が思うのも無理はなかった。すぐそこの角を曲がれば駅まではほんの数十メートルだった。覚悟を決めて紗江は勢いよくそこを後にした。  思ったよりも雨は強く降っていた。紐の切れたバッグを雨よけ代わりに頭にかざしていたが、まったく何の役にも立っていなかった。雨は体のあちこちにぶつかり、濡れていないところなどないに等しかった。  家に着いたらあったかいコーヒーでも・・・、ううん、こんなときはココアがいい。そうしよう。  ほんの少し意識を現実からそらしただけだった。雨のせいで伏し目がちではあったけれども、前はみていた、はずだった。 「わっ!」 「きゃぁっ!」  強い衝撃の後、気がついたときは紗江は雨と埃でどろどろになった路面のうえにペタリと座り込んでいた。呆然とした目の先には、携帯や化粧ポーチ、手帳にハンカチと、見慣れたあらゆるものがバッグの中から勢いよく辺りにぶちまけられていた。道行く人は座り込んで動かない紗江と散らばった物たちに静かな目を向けるものの、誰一人としてそれ以上注視しようとはしなかった。絶え間なく降り続ける雨と、切れ間なく通り過ぎる足から飛び跳ねる泥水は、紗江と紗江のものを少しずつ、けれど確実に汚していく。  いったい私が何をしたというのだろう。頑張ったのに。今日だって頑張ってきたのに。それとも、もっと頑張らなければいけないんだろうか…。  目頭が熱くなるのを感じたときだった。 「すいません。大丈夫ですか?」  頭の上から降りそそぐ優しげなテノールの声にふと目を上げると、そこには差し出された大きな手があった。促されるようにその手に自分の手を重ねると、驚くほど軽く自分の体が上へと引き寄せられた。 「ちょっと、これ、持っていてください」  声の主は紗江の手に傘の柄を握らせると、濡れ続けている紗江の持ち物を拾い出した。雨はまだ容赦なく降っていた。 「これで全部、ですか?」  いつの間か全てのものを拾い集めてその人は紗江の目の前に立っていた。先ほど自分に差し出された手には紗江の見慣れた持ち物があった。  一つずつ手に取る。  薄い水色のタオル地のハンカチは薄茶色に染まっていた。携帯には見た目にわかるほど大きな傷がついていた。手帳は茶色い水を含んでぶざまに膨らんでいる。最後に残った化粧ポーチだけは泥にまみれた水滴はついていたが、ナイロン製の布地のせいか拭けば汚れは落ちそうだった。  最後に残った化粧ポーチを受け取ろうとしたとき、紗江はビクッとした。さっき自分に差し伸べられた手は綺麗だったのに、今は濡れて泥に汚れていた。そのとき、自分は救いの手の主に何一つ感謝の意を表していなかったことに気づいた。 「…あ、の、すいません」  救いの手。泥まみれになった、手。  紗江はその手についた汚れを落とそうと自分のハンカチを使おうとしたが、そのハンカチはその手以上に汚れていた。 「あっ…」  ばかだ、私…。  また、涙があふれそうになる。 「ごめんなさい…。こんなに手が、汚れてしまって…」  涙がぽとりと手に落ちた。涙の粒が手の汚れを流していった。 「気にしないで。大丈夫だから」  優しいテノールの声が気遣ってくれるのがわかる。  どう考えたって悪いのは私のほうなのに。前も見ず走っていた私なのに。 「傘、入っていいかな?」  傘?  そのとき、ようやく紗江は傘を預かっていたことを思い出した。そしてその間、自分だけ大きな雨粒から逃れていたことも。  わ、私ったら!なんて恩知らずなの!  紗江は顔が熱くなるのを感じた。  恥ずかしすぎる。自分のことだけ考えて、自分だけ悲壮な気になって、助けてくれた手をこんなにも汚して…。 「ごめんなさい!」  紗江は慌てて傘を差し出した。  ハンカチが落ちる。頬に雨が当たる。でも、もうどうでもよかった。 「気にしないで」  優しい声と手の主はそう言って足元に落ちたハンカチを拾った後、静かに紗江の手から傘を受け取った。雨はもう、紗江のどこにも当たらなかった。 「ここは人が多いから、あっちに行こう」  肩に置かれた手に促されるまま、歩道の脇へと移動した。 「怪我とか、大丈夫?」  下を向いたまま、こくんとうなずく。  痛みはなかった。ないというより、まったく感じなかった。ただとても、自分が情けなかった。 「帰るところ、なのかな。電車?」  ただ、頷く。  声が、出なかった。 「そっか。そのままじゃ、帰れないよな」  最後の言葉は自分に言っているようだった。  とにかく、これ以上迷惑はかけられない。それに、早く帰りたい。ここでこんなに惨めな気分でいるのはいやだった。  丁重にお礼を言って、それで、すばやく立ち去ろう。  紗江は顔を上げた。 「あの、ご迷惑をおかけしました。それと、本当にありがとうございました」  そういえば、ぶつかってからまともに相手の顔を見たのは初めてだった。  この人、確か…。  紗江が記憶の中にある一人の姿を見つけたときだった。 「あれ…、君は、もしかして、『カノン』の…」 『カノン』  それは、紗江がランチに通う店の名前。  お昼は節約のためにお弁当なのだが、月に一度、お給料が入ったときだけは『カノン』のハンバーグを食べに行く。『カノン』のハンバーグランチは濃厚なデミグラスソースがたっぷりかかったジューシーなハンバーグに付け合せのポテトサラダ、すっきりとした味わいのコンソメスープに自家製パン、食後には季節のデザートとコーヒーがついて3500円。シェフはどこだかの有名な店のオーナーシェフをしていたらしく、実は知る人ぞ知る店だったりもする。一人暮らしの紗江には結構な痛手なのだが、自分へのご褒美として月に一度だけ訪れる。  ある雨の日、紗江が店の最後のテーブルに案内されようとしたとき、一人の男性客が店に入ってきたことがあった。満席だと聞いてあきらめて踵を返そうとしたその男性に、紗江はもしよかったらと相席を勧めたことがあった。その男性は紗江が店に通いだしてからちょくちょく見かけていて、いつも紗江と同じように一人でハンバーグランチを食べていた。ただ、何となく気になっていて、相席してもいいかなという気になった。そんなちょっとした「気まぐれ」だった。  初めて一緒のテーブルに着いたその日、二人はいつものように静かにランチを食べた。そして彼は席を立つ際、紗江の耳に心地よく響くテノールの声で「ありがとう」と言い、少し歯を見せて微笑んだ。それだけだった。それ以降は、以前のように別の席で同じものを食べていた。  見上げた先にいたのは、その人だった。 「見たことあるなと思っていたんだ。あの時は、ありがとう」  彼はあの時と同じように少し歯を見せて微笑んだ。  その笑顔になぜか、紗江の心臓はどきんとした。 「あれからもう一度お礼を言いたかったんだけど、何となく声をかけるタイミングがなくて。こんな形だけど、よかったよ」 「そんな、あれくらい、なんでもないです」  雨なのにそこだけ晴れているようで、濡れて泥に汚れた紗江は思わずうつむいた。 「あー、もしよかったら、タクシーに一緒に乗らないかな。お互い濡れてるから早く帰ったほうがいいだろうし。ここにタクシーチケットもあるしね」  内ポケットからタクシーチケットを取り出してにこっと笑う彼を見て、紗江は思わず微笑んでいた。  そんな紗江を見て優しく微笑み返した後、彼は軽く片手を上げてタクシーを止めた。  静かにタクシーのドアが開く。 「すいません。少し濡れているんですが、かまいませんか」 「ん、ああ、かまわないよ。早く入りな」  運転手はずぶぬれの紗江を見て、嫌な顔もせず乗車を勧めてくれた。 「さ、乗って」  彼は乗り込むのに濡れないように傘を紗江にかざしたまま、左腕を乗り口の上部に置いて頭が当たることのないようにしてくれていた。そんなエスコートをされたのなんてまったくの初めてで、紗江は戸惑ってしまった。 「早く」  促されるままに、彼の腕を潜り奥のシートに座った。  紗江がシートに落ち着くのを見届けてから、彼は傘を閉じ、すっと隣に座った。ふっと、アフターシェービングローションの香りだろうか、彼のほうから香ってきた。 「どこまでですか」  バックミラー越しに後ろを見つつ、運転手が聞いてくる。 「彼女の家のほうに先に行って欲しいんですが。えっと、どこへ行けばいいのかな」  彼も運転手も紗江の言葉を待っていた。 「あ、桜花高校まで」  運転手はマイクに向かって事務所に行き先を告げた後、静かに車を発進させた。
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