夏の始まり

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 葉月さんに案内されて、弘樹は面接が行われる部屋へと向かった。客席から店の奥に入り、調理場からできた料理を受け取るウェイトレスを横目に、こじんまりとした部屋に通された。事務用の机や棚が置かれてあり、なにかの資料なのかたくさんの紙類がきちんと整頓されてある。 「あの」と弘樹は気になって葉月さんに声をかけた。「そういえば履歴書とか何も持ってきてないんですが」  突然のことなので持ってくるもなにもないが、そういうものが要るのではないかと弘樹は思った。 「大丈夫ですよ」葉月さんは笑顔を浮かべた。 「働いてもらうことになったら、いろいろと手続きのために持ってきてもらうものがあるから、そのときに一緒にお願いします」  そういうものなのか。やはり必要なことは必要なようだが後でもいいのか。弘樹はわかったようなわからないような感じがした。 「そこに座っていてください。オーナーを呼んできますから」  そう言い残して、葉月さんは奥の扉から出て行った。  弘樹は椅子に腰掛けて、面接って葉月さんがするんじゃないんだ……と思った。弘樹が先に面接に挑むことになったのは、たまたま通路側に座っていたからだった。奥の席に座っておけばよかったな、とも思った。後でも先でも結局は変わらないけど。  弘樹は所在なく部屋を見渡した。背中側の入り口と葉月さんの出て行った奥側の扉の間に机が置かれていて、向かいの椅子のすぐ後ろ、壁際には閉じたままのダンボールが小積んであった。その脇の、奥側の扉の横の壁には、小さな厚紙に紙を貼って紐を通したような、なにかの表らしきものが掛けられてある。事務机には両側に三脚ずつ椅子が備えてあり、弘樹はその一番手前に座っていた。机の上には三角形のカレンダーが立ててあった。  飲食店に食事にくることはあっても、奥まで入って見ることはない。こういう店の内側を目にするのは初めてだった。何の部屋なのか弘樹は不思議に思った。どちらかというと雑多なこの部屋で葉月さんが事務作業をする姿を思い浮かべるのは難しい。  背中の方からは、かすかに客席のにぎわいが聞こえてきていた。  扉の開く音がした。部屋の奥側から、暗い色合いのスーツ姿の男が入ってきた。弘樹があわてて立ち上がると、男は「オーナーの前原です。よろしく」と言いながら右手を差し出した。弘樹も咄嗟に名前を告げながら右手を出した。弘樹のより一回り以上大きな手だった。弘樹の方が体温が低いのか温い感触が移ってくる。そういえば、と弘樹は思った。部活の練習や試合とかで以外、握手するなんて初めてかもしれない。同じ年頃の手の平よりも肉厚で、去年まで顧問だった古河先生もこんな手をしていたのを思い出した。先生の手はしかしもっと硬かった。  オーナーは自分の座る椅子を引きながら「どうぞ掛けて」と言った。一緒に戻ってきた葉月さんも、オーナーの隣に座った。弘樹は元の椅子に再び腰を下ろした。  葉月さんは和やかな表情をしていたが、オーナーはとくにそういう顔ではなかった。  オーナーはやや前かがみに、机に両腕を乗せて質問を始めた。
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