夏の始まり

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 昼休みになるといつもなら学食に向かうが、今日は茂が「金がない……」と力のない目で言うので、弘樹も購買でパンを買った。校庭と校舎の間には舗装路に沿って樹木が植わっている。いくつか置かれている白いベンチは他の生徒たちで埋まっていて座れるはずもない。茂が校舎の壁沿いの段差に腰掛け、弘樹も隣に続いた。  授業中ずっと寝ていた茂は、パンを袋から出すとにわかに生気を取り戻し、大きく開けた口に放りこんだ。もぐもぐとしばらく口を動かしているうちは幸せそうだった。 「もうなくなった」  まだ袋を開けたばかりの弘樹は少し肩を入れてパンを遮蔽した。 「もっと味わいなよ」 「そんなちびちび食ってると食った気にならんよ」  弘樹はパンを少しちぎって口に入れた。 「よく噛んで食べないと」 「そんなこと言われたの小学生以来」 「僕はつい最近も言った気がするんだけど……」  茂はくしゃくしゃに丸めたパンの袋をもう一度広げて、じっと見て、また丸めた。そんなことをしてもパンは増えないよ、とはさすがに弘樹も言わなかった。 「お昼代もらってないの?」 「もらってる」 「なんに使ったの」 「色々あるんよ」  弘樹のいぶかる様子を見て茂は付け加えた。 「違う違う。毎月、一か月分まとめてもらってて」 「無茶するね」 「だろ? オレもそう思うわ。わが親ながら、息子のことなんもわかってないんだからなぁ」  お昼代をなにかしらかに使い込んでしまったらしい茂は自分の非を棚にあげて親を非難した。こういう目に懲りてちゃんとお金を管理できるようになってほしいと思ってるんじゃないかなぁ、と言ったほうがいいのか弘樹は悩んだ。 「具合悪いの?」 「ううん、僕は大丈夫」 「そっか。今風邪ひいたらもったいないからな。夏休みなのに」  七月も中旬に差し掛かり夏休みももうすぐだった。期末試験から解放されたからか、長期休暇が目の前だからか、誰もどこか嬉しそうな顔をしているようだった。  夏休みか。弘樹は去年の夏休みを思った。練習に合宿にと部活漬けなのは変わらなかったが、中学のころと違った小所帯の部は居心地が良かった。入学からまだ半年も経っていなかったが、上級生との距離はなくなっていた。 「なぁ夏休みってなんか用事ある?」  茂の質問には答えないまま、弘樹はまたパンを小さくちぎって口にした。 「ないよな。もう部活も辞めたんだし」 「辞めたんじゃないんだけどね」  辞めたわけでは決してなかった。辞めるつもりはなかったし、三年生になって受験勉強を本格的にはじめるまでは続けられるものだと、当然のように考えていた。 「友達んちでやってる店で人手が足りないらしくってさ、一緒にやんない?」 「バイトってこと?」 「そう。知ってる? 三組の水森」 「他のクラスの人のことはあんまり」 「同中でさ」 「じゃあ僕とは別の中学ってことだから、ますます知らないよね」 「小学校も一緒」 「生まれた病院まで一緒とか言わないでよ」 「病室も一緒だし産婆さんまで一緒」 「うそでしょ」 「うそだよ。あんまり乗り気じゃない?」  弘樹は答えあぐねた。茂のじっと見る目からさりげなく視線を逸らすと、また袋の中のパンを少しちぎった。  乗り気かどうかでいえば乗り気なわけではない。かと言って断る理由もなかった。もう練習もないし合宿もない。だから別に夏休みにアルバイトをはじめたとしても何の問題ない。けれど何故か気乗りしなかった。どちらかというと困ったような気持ち。どうしてだろう。弘樹はそれを見て取られたような気がした。 「違うんだ。そんな浮ついた気持ちじゃないんだ」  弘樹は何も言っていないが、なぜか茂は弁解しはじめた。 「聞いてくれ。夏休みってさ、有意義なことをするべきだと思うんだ」 「う、うん……」  弘樹は耳を疑った。茂に似つかわしくない言葉ということでもあるが、それより、有意義という言葉を知ってたんだというのが正直な気持ちだった。 「来年はもう受験だろ。そしたらもう遊べるのは今年だけじゃん」 「バイトしてたら遊べないと思うけど」 「休みくらいあるよ。……あるよな?」 「僕に聞かれても……」 「あるとして、遊ぶのにもお金がいるでしょ。バイトする。金溜まる。夏、遊ぶ。とても有意義」 「遊ぶって、具体的になにするの?」 「そりゃもう、海に行ったり」 「誰と」 「オレとオマエ。君と僕」 「男二人で海?」 「わかってるよ。誘うよ。女の子」 「計画倒れになる予感しかしないよ」 「それはそれでいいじゃん。やるだけやって、だめならしょうがない」  なにがいいのかはわからないが、茂は自信あり気に笑った。  やるだけやって、ね。弘樹は、今年の県大会で、先輩たちがそう言っていたのを思い出した。試合が始まったらやるしかないのだから、それは正しかった。やるだけやろう。全力でぶつかって、それからのことはその後だ。コートの横でそう励ましあっている先輩たちを見ていた弘樹は、勝ってほしいと思った。勝てばもう一試合、もう一試合を勝てばまたそれだけ続けられる。 「そんなに心配しなくても、心当たりはあるからさ」  茂はそう言って立ち上がった。弘樹のパンもさすがにもう残ってはいなかった。  空になったパンの袋を丸め、教室に戻る道すがら、今朝のことを考えた。あれは弘樹の考えたようなことではなかったのだろうか。茂の態度を見るにあまりそうとは思えなかった。けど……よくわかんないからなぁ。弘樹が茂の顔を見ていると、気づいた茂は口角を上げて見せた。いい笑顔をしていた。よくわからないのはもちろん茂のことではなかったのだが、やっぱり茂のこともよくわからなかった。
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