夏の始まり

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 普通科はいくつかのコースにわかれていてクラスごとに空気が違った。弘樹の四組は理数コースで男子が多数──正確には三十八対〇──だが、目当ての三組は英語コースだった。  放課後、茂と三組に向かった弘樹は、教室の入り口で少しためらいを感じた。よそのクラスに入る抵抗感はどこから生まれるのだろう。自分を内側と認めているわけではない集団に入り込む居心地の悪さではあるだろうけど、明確な敵意や排斥の気持ちを向けられているというわけではない。そういうことを気にしたこともないかのような茂に続いて弘樹が教室に入っていくと、三組の女子たちの視線がそれぞれのタイミングで立ち代りに向けられる。え? 入ってきちゃうの? 大丈夫? ほんの一瞬ずつの好奇の目。三組はほとんどが女子のはずだったが、教室には居づらいのか、ほとんどではなく、ちょうど四組と反対だった。三組の空気は植物的な香りがした。  教室の入り口から遠く離れ奥へと、窓際の席までやってきて、茂は立ち止まった。席の主は机に肘をついて窓の外を眺めていた。校庭では運動部が道具を運んだりと練習の準備をしていた。 「連れてきたんだけど」  茂がそう言うと、窓の外を見ていた女子は反射的に声のした方に顔を向けた。その一瞬だけは、無表情の鋭い目に口を結んでいたが、机の前に立った茂と弘樹に向き合うときにはもう、目を少し大きく開き、口元をほころばせていた。ぱっと明りが灯ったようだった。 「早かったね」 「こいつ、同じクラスの小林。これがさっき言ってた水森な」 「小林くん? ありがと、ごめんね、わざわざきてくれて」  ミナモリさん、ミナモリさん、弘樹は頭の中で繰り返した。人の名前を一回で覚えるのはあまり得意ではなかったが、聞き直す気まずさはもっと得意でなかった。  ようやく弘樹が水森さんを真っ直ぐ見ると、椅子に座っている水森さんは下から見上げて、上目遣いに弘樹を見ていた。ちょっと難しそうに眉をひそめて。その目と目があった。弘樹は気持ちとしては後ずさりしたが実際にはちょっとだけ視線を泳がせた。その先では水森さんの首元で結ばれた細いリボン紐が軽く揺れた。 「小林くんって……なんのバイトか聞いてる? こいつなんにも説明してないんじゃない?」  水森さんは「本人は説明したつもりかもしれないけど」と付け足して笑った。 「人聞き悪い。オレがそんなテキトーなことすると思う?」 「一応、飲食店ってことは聞いたけど」 「広崎駅あたりの並木通りってわかる? 『Hanna' Shallot』ってお店なんだけど」 「うーん……あんまりその辺行かないから」  弘樹は少し不安になった。名前がちょっとお洒落そう過ぎだった。そんなところでずぶの素人がいきなり働いても大丈夫なのかな。 「その感じだと、やっぱりどんなお店かも聞いてない?」  水森さんは茂を横目に見て、ほら言った通りといった風に、困ったようでいてどこか自慢げに笑った。茂は「話した話した」と言うが弘樹は自分の記憶力が不安になる。 「どんな店なの?」 「うーん。カフェみたいな感じだけど、お昼や夕はしっかりした食事も出すようなお店かな。来るのは若い人も多いけど、仕事中っぽい人とか、親子連れとかも結構いたり」  弘樹は想像してみようとしたけど、外食店にそう詳しいわけでもないし、いまいちうまく思い浮かべられなかった。  弘樹があまりピンときてないのを察したのか、水森さんは考えるように言してった。 「ね、折角だし、今から行ってみない? 口で説明するより、見たほうが早いよ」 「その……お店に?」 「うん。お客さんとして」 「おごり?」と聞いたのは弘樹ではなく茂だ。 「それは無理だけど、従業員割引はきく」 「まじかぁ」  十分な昼飯にも事欠く茂はため息をついた。 「貸して」 「その前にこの前の千円、返してよ」 「悪い。オレは無理だ……」 「大丈夫、お冷は出るから」 「行くのはいいけど」弘樹は一応言っておかねばと口を挟んだ。「まだどうするかちょっと悩んでて」 「そうなんだ。そうだよね。どんなお店か知らずに決められるはずないもんね」  水森さんは弘樹には笑みで応えた。 「だったらなおさら、実際に見てみたほうがいいよ」 「オレは知ってるからなぁ。どんな店か」 「山口くんが小林くん誘ったんでしょ。ついてこないと」 「そうか。しゃあない、じゃあお冷飲みにいくかぁ」  水森さんが弘樹を見て「いいよね?」と聞いた。いいよ、と答えるのも何か違う気がして、弘樹が「オッケー」と返したのは、考えてのことではなく反射的なものだったが、後からちょっと、オッケーってのもどうなんだ、と自分ながら思わないでもなかった。
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