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空調の効いた店内をほのかに巡る空気に乗って香草とにんにくの炒めた香りがするのに気づいて、弘樹が店内を見渡すと、ウェイトレスが丸いトレイに料理を乗せて運んでいた。ウェイトレスの上体はほとんど揺れず、料理は胸の高さに引かれたガイドを辿るように進んでいく。ウェイトレスが会社員の席までやってきて、声をかけたとき、電話の着信音らしきものが鳴った。会社員は卓上に広げた資料のようなものを脇に寄せ、ウェイトレスは皿をテーブルに並べた。電話の音は、店のレジの方から聞こえるようだった。立ち去ろうとするウェイトレスを会社員が呼び止めると、ウェイトレスは笑顔で注文を取る機器をエプロンから取り出した。
呼び出し音の鳴り続けるレジの方を見ていると、店の奥から、ウェイトレスの制服とは違う、ブラウスとスカート姿の女性が出てきた。ゆるやかに波うつ長い髪を手でかきあげ出した耳に、受話器を当てた。
「どう? コーヒーの味は」
水森さんの問いに、茂は渋い顔をして答えた。
「なかなかおいしい」
「好きになれそう?」
「もとから好きだから」と茂はまだしばらくはがんばっていたが「それ使わないならもらっていい?」と弘樹の方に身を傾けて、使わずにおいてあった未開封のシロップに手を伸ばした。弘樹は椅子の背もたれに体を押し付けて身を引いたが、茂の左腕がぶつかった。茂はシロップを取り損ねた。シロップは机から落ち、床に跳ね、転がった。
拾い上げたのは、さっき電話を受けていた女性だった。
「落とされましたよ」
シロップの容器を差し出した。弘樹に手渡して、めがねの奥で微笑んだ。紺の襟と袖の白いブラウスは皺一つないようで、かがんだり手を差し出した後も、きちんとひとりでに元に戻るかのようだった。
「いらっしゃい。めずらしい、お客さんとして来るなんて」
水森さんが「マネージャの葉月さん」と教えると、葉月さんはあらためて「邪魔してごめんなさい。くつろいでいってくださいね」と二人に笑んだ。
葉月さんが水森さんを見ると、長い髪がわずかに揺れた。
「水森さん、今日このあと時間あります? 今晩のシフトに入ってほしいんだけど……」
「いいですよ。どうかしたんですか」
「早瀬さんがどうしても来られないらしくって」
「早瀬さんって?」と茂が口を挟んだ。弘樹は思わず茂を見た。
「バイトの人、ここの」水森さんが手短に答えた。
「あ、なるほどね」と言って、茂は最後のシロップをコーヒーに入れた。もうコーヒーには見えない。
「何時からですか」
「六時なんだけど、お願いできる?」
「わかりました」と言いつつ水森さんは時計を見て「……二人ともゆっくりしてく? 暇つぶしに」
「なんでオマエの暇つぶしに」
「僕はいいけど」
弘樹は小さく笑った。六時まではまだ一時間半ほどあった。
「折角だし、見学してこうよ。水森さんの働いてるとこ」
そう口にしてみると、店の制服に身を包んだ水森さんがふと弘樹の頭をよぎった。さっきテーブルに案内してくれた店員と同じ、控えめなフリルとリボンのついたウェイトレスの服装に、みんなを歓迎するような笑顔で、料理を乗せたトレイを手にし、てきぱきと店内を動き回る姿。
「いいね、それ。そうするか」
「やっぱりいますぐ帰っていいよ」
現実の水森さんにつられて、想像の水森さんも嫌そうな顔をした。金棒まで出てきた。弘樹はバカなことを考えている自分に気づいてなんとなく居心地悪くアイスティーのグラスに手を伸ばした。
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