よすが屋質入れ台帳控え 余話

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「俺の記憶を質に入れたいのですが」  切り出してから、自分の放った台詞の馬鹿馬鹿しさに黒田荘介は顔を赤らめた。  師事している絵の先生に連れられて出席した酒宴の席で、誰かがしていた噂話を頭から信じてやって来てしまった己の浅はかさに、今更気が付いて顔が赤くなる。  あんな話を信じるのは、田舎者の証拠だろうか。  不安になって、思わず指の先が白くなるほど強く袴を握り締める。  そんな荘介の緊張した様子に、苦笑をしたのは店の主だった。  十文字通りの角にある、「よすが屋」という流麗な筆致で書かれた看板の掲げられた店。  その伝聞を頼りに、荘介がこの店にたどり着いたのは半時ほど前のことだ。  一見すると店だと分からない、普通の邸宅のような佇まいに、荘介は戸を叩くのを躊躇した。それでも諦めることが出来ずに、店の前でぐずぐずしていたところ、打ち水の桶を持って戸から出て来た女と目が合った。  長い黒髪を綺麗に結った人で、鮮やかな夏色の着物を纏っている。  年の頃は、荘介とそれほど違わないように見えた。 「お客様ですね」  その女にやけに断定的に声を掛けられて、否定する間も無く、荘介は店の中へと誘われた。案内されたのは落ち着いた座敷で、やはり店というよりただの邸宅の客間に見える。 「今、店主を呼んできます」  言って障子を閉じた女が去って行く。  その物慣れた様子は、奉公人という感じで無い。もしかしたら、この店のお内儀だろうか。  そんなことを考えていると、廊下から軽い足音がして、不躾なぐらいに軽く障子が開いた。  座したまま荘介が見上げると、そこには若いのか老けているのか良く分からない――妙に雰囲気のある男が立っていた。  立派な身なりをしているが、なんとなくそれが板に付いていない。どことなく浮ついた、軽薄な印象を与える男だった。顔立ちは悪くない。にこりと笑ったその顔は愛想が良いのだけれど、なぜか目が笑っていないような気がする。 「いらっしゃいませ」  見かけの印象と同じく、軽い声音で言った男が、荘介の向かいに腰を下ろした。 「ご用件を伺いましょう」  問われて、ようやくの思いで荘介が口にしたのが冒頭の台詞だった。  部屋の中に沈黙が落ちる。  それが長くなるにつれて、荘介はだんだん居たたまれなくなって来た。  記憶を質に入れる、なんて普通に考えればあり得ないことだ。  けれども、この店はそれをやっていると――そう聞いた。だから、荘介はこうしてやって来た。  しかし、冷静になって考えれば「記憶」を質に入れるなんてことがあり得るのだろうか。おとぎ話や童話では無いのだ。そんな魔法のようなことが出来ると思えない。  噂を鵜呑みにして、こんな申し出をした荘介に店の主人は呆れているのかも知れない。  思った途端に、自分の無知な田舎者加減を突きつけられたような気がして荘介は首筋までを真っ赤にした。 「すみません、妙なことを言いました」  詫びを入れて、そそくさと立ち上がろうとする。  そんな荘介を、よすが屋の主人は片手を挙げて制した。 「ああ、いいえ。こちらこそ、誤解をさせて申し訳ない。うちでは確かに『記憶』を扱っておりますよ。安心して下さい」 「え――」 「ただ、あなたの記憶を本当にうちでお預かりして良いのかどうか。それが判断出来ませんで」  呟きながら主人が顔を傾けると、障子の向こうに、すっと影が差した。  荘介を座敷に案内した女が、茶碗を二つ盆の上に乗せている。 「失礼いたします」  頭を下げながら置かれた茶に、荘介は却って恐縮した。店の主人は頭を掻きながら、部屋の隅に置いてある煙草盆を引き寄せる。そして、煙草に火を付けながら廊下に出て行こうとする女に向かって声をかけた。 「開けたままで良いですよ。風を入れたいので」  女は黙ったまま頭を下げると、しずしずと廊下を歩いて行った。  店の主人が、紫煙を吐き出す。  開け放たれた障子から吹き込む風が空気を揺らした。荘介は何気なく庭に視線を向ける。小さく狭いながらも手入れが行き届いた庭には、緑が生い茂っている。  画題になりそうな庭だ、と荘介は思う。  なんということの無い夏の庭だが、妙に趣があった。先ほどの女を立たせても良いかも知れない。水を巻いている女の姿などを添えれば、かなり良い絵になるだろう。  まずは庭にある独特の趣を描き取ることが必要だが、それはまだまだ未熟な荘介には難しいことだった。 「あなた、月岡先生のところの生徒さんでしょう」  何気ない様子で師の名前を出されて、荘介は思わず顔を上げる。店の主人は煙草を吸いながら、淡々と言葉を続けた。 「いつかの絵の展覧会で、先生と一緒にいるのを見かけたことがありますよ。あの先生なら、弟子の生活の面倒もきちんと見てくれる筈だし、こんな店に金策に来るような必要が出来ることは滅多に無いと思うのですが」 「そうです。先生は良くしてくれています」  荘介は前のめりになって店主の言葉に頷いた。その荘介の様子に、店主は目を眇めて訊く。 「では、どうして?」  荘介は軽く俯いて、やがて言葉を口にした。 「実家の母が具合を悪くしまして」 「ほぉ」  店主が軽く相槌を打った。  荘介はそれに押されるように言葉を続ける。 「俺の家は決して裕福ではありません。むしろ、貧しい方でした。先生に弟子入りする時も、父が親戚の伝手を頼ってくれたからで――本当に偶然のようなものです。その父は、俺が先生のところに本格的に身を置くようになってすぐに亡くなりました。今、実家にいるのは母と弟たちだけです」  母が具合を悪くしたと手紙を寄越したのは、荘介の生家の近くに住む親戚だった。荘介は、その知らせに激しく動揺した。  荘介は長男である。  本来ならば、父が亡くなってすぐに故郷に戻り、家計を支えるように尽力すべきだったのだ。けれども母が、荘介の帰郷に反対をした。  荘介が東京の画家に弟子入りするように手を尽くしたのは、父自身だった。生前のその行動を反故にするような真似はするべきではない、家計は自分がなんとかする。そう荘介を諭して、東京に残れるようにあれこれと手を尽くしてくれた。  その母が倒れたという知らせを手にして、「やはり無理をさせていたのか」と荘介は非常に悔やんだ。  せめて仕送りの一つでも出来れば良いのだが、師匠に衣食住を世話して貰っている生徒に、それは難しい。日働きで小銭を稼ぐことも考えたが、それで肝心の絵の勉強が疎かになってしまっては本末転倒である。  大体の話を聞き終えたところで、よすが屋の店主は呆れた顔をして煙草盆に灰を落とした。 「それで記憶を質に出そうって言うのは、あなた、いくらなんでも短慮ってもんですよ」  叱るような声音に、荘介は少しだけ怯んだような顔をして、それから聞き返す。 「どうしてです?」  財産と呼べるようなものは何一つ無い荘介には、質に入れられるようなものはそれこそ記憶しか無かったのだ。それなりの決意をして、荘介はこの店を訪ねて来たつもりだった。それを「短慮」と片づけられて、些かむっとした心持ちもあった。 「だってねぇ、あなた。こちらも商売でやっているんですよ。二十歳そこそこの若いあなたが持っている記憶なんて、たかが知れている。その中から価値のある記憶を売ろうなんて言ったら――」  そこで煙草を置いた店主が、飄々とした口調で言う。 「あなたが月岡先生のところで今まで学んだ技術の全て、とかでしょうね」 「なっ」  荘介は狼狽えて、思わず腰を浮かせた。  店主は荘介の動揺など物ともせずに、懐から算盤を取り出して弾く。 「郷里のお母様と過ごした思い出や、あなたが絵を志すようになった思い出だとかも、それなりの値にはなりますけれど」  どうしますか。  荘介に視線をやることも無く訊ねる店主に、言葉を失ったまま黙り込む。  師の元で学んだ記憶を失うなんていうのは論外だし、郷里の母との思い出や、絵を志した思い出も無くすだなんて以ての外だ。  それら一つでも失えば、荘介は画家としての夢など簡単に捨てて郷里に帰っていることだろう。将来、自分が大成するのかどうかも分からない不安定な道だ。心が挫けそうになる度に、それらの思い出に支えられてきた。それを手放すことなど、出来る筈が無い。  店主は軽く肩を竦めるようにして言った。 「ほらね」  荘介の答えなど、最初から分かっていたと言わんばかりの声だった。  記憶ならば、と軽く思った自分の短慮に荘介は反省して深くうなだれた。  記憶などというものは、切り売り出来るようなものではない。それを質に入れる、というのであれば、それなりの危険性を最初から想定しておくべきだった。 「お時間を取らせて、すみませんでした」  悄然としながら謝罪を口にして、場を辞そうとしたところで、店主が算盤を弾いて言う。 「まぁ、待ちなさい。ここまで来て手ぶらでお返しするのも可哀想だ。一つ、相談しませんか?」  *****  ふと気が付けば、荘介は見知らぬ通りに立っていた。  今日は久しぶりに師事する先生から貰った休みだ。郷里の母のことを考えると、気分が塞いでしまう。なので、思い切って散歩に足を伸ばしたのだが気が付かない内に遠くまで来すぎたらしい。  十文字通り。  聞き慣れない通りの名前を見上げて、見慣れない町並みを興味深げに見て歩く。  商家と民家が入り交じっていて、大通りのような活気は無いが、そこそこに人の通りがある。  角にある流麗な筆致で「よすが屋」と書かれた看板に目が留まる。  これは一体、なんの店だろう。  不思議に思いながら、荘介は不意に疲労感を覚えて、師の邸宅に帰るべく足を動かした。 「なにを買ってあげたんです?」  茶碗を片付けに座敷に顔を出した女が、出掛ける支度をしている店主に向かって訊ねる。  部屋の中央には、黒塗りの細長い箱が置いてある。鮮やかな朱色の紐を巻き付けて締めてある。  それに、ちらりと視線を向けた店主が言う。 「大したものじゃないですよ」 「そうですか」  訝しげに問う女の声は、明らかに店主の返答を信じていない。それに苦笑しながら、店主は煙草盆を片付けながら言う。 「――この店と、それに関わる記憶の全部ですよ。これぐらいなら、あの人の一生に差し障りないでしょうから。そもそも、うちの店みたいな不健全なものは、ああいう若い人の記憶に残らない方が良いんです」  店主の言葉に、女は素っ気ない声で言った。 「売り物になりそうにないですね」  立ち上がった店主が、どこか明るい声で言う。 「そうですかね。親孝行を出来なかったことを苦にしている因業爺なんかが欲しがるかも知れませんよ」  女の声はどこまでも素っ気なかった。 「松本先生頼りですか。希望的観測ですね」 「まぁ、確かに」  そう言いながら店主が座敷を出るのに、女も茶碗を片付けて立ち上がりながら言う。 「どちらへ?」 「月岡先生のところへ。知らない仲じゃないのでね、今日の事情を話して彼のお代を渡して来ます。――往復の列車賃ぐらいにはなるでしょう」 「そうですか」 「では行ってきます」 「お気を付けて」  ふらりと出かける店主の背を見送って、女は茶碗を片づけると再び座敷に戻った。  部屋の中央に置かれた黒塗りの箱を取り上げると、邸宅の敷地の中にある小さな蔵へと足を進める。預かっていた鍵で錠を開けると、薄暗い部屋の中に足を踏み入れる。  棚の中には、似たような黒塗りの箱がずらりと並んでいた。その中の空いた棚に、女は持ってきた箱を仕舞い込んで、再び蔵に錠を掛ける。  よすが屋の蔵に、一体どれだけの「記憶」が仕舞い込まれているのか。どんな「記憶」が質に入れられているのか。  それを知っているのは、店主一人きりである。 END
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