今日私は繭子を殺さなければならない

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 今日私は繭子を殺さなければならない 。  繭子という名前を心に思い描く時、もう以前のように心地よい 仄かなときめきや、 紅茶に蜂蜜が蕩けるような甘ったるい気持ちになることはない。 逆に漢方薬のザラリとした粒子でも、口にした時のような苦々しい思いである。 私は自分でも気付かなかったが、こんなにも薄情で冷酷な男だったのか。  冷血。それは自分でも戸惑うほどだ。ぬるま湯に浸かっている時には、人はあまり自分の正体を知る機会がないように思うが、人生の有事の時に往々にして、本来の姿を知る事になる。 紛れもない自分の本性を 。  繭子を疎ましく思うようになってから私の体内には雨が、例えば熱帯雨林のような大粒の雨がやむことなく降りしきって、体中のあちこちに濁った水溜まりを作っている。それはジメジメと不快で一向にやまない雨だ。やまなければその内に私は土で捏ねた泥人形のように、簡単に形を成さなくなるだろう。  雨を止めるには繭子を殺すしかないという考えは、泥濘んだ道のようにズッポリと私を捕えて離さなくなった。    ✶  午後 十一時。  夕方からシトシトと小雨の降る中、人出はそこそこあるようだ 。中洲も大分パニックが治まり落ち着いて来たのか、騒動前の六割の人出といった所か。どこか適当なバーにでも入ってウィスキーの水割りでも飲み、時間をつぶす事にしよう。 愛人を殺そうとする夜に行きつけのバーに行く馬鹿はいない 。    繭子は博多中洲の片端で、一人で店を切り盛りしている。 蔦が絡まる古いビルの地下にあるカウンターしかない小さな店は、いつも代わり映えのしない常連客ばかりで、店の先行きに光は見えない。私と繭子の関係にはおそらく誰も気付いていないだろう。 接待で使うような店でもなく、気まぐれにひょっこり入った店だ 。職場の連中を連れて行った事もない 。  仕事柄 、繭子も私達が特別な関係に見えないように細心の注意を払っている。 ママ目当ての客達に、ママに特定の男がいる事など知られていい訳がない。     客あしらいのうまい繭子は閉店間際になると上手に客を帰してしまう。 さてどうしたものか。 待ち合わせてすぐにホテルに行くのもどうかと思うが、 今夜に限っては下手にこの界隈で飯を食うのも危険である 。 すぐにホテルに入ろう 。 歓楽街を抜けると一夜限りのカップルを手招きしているようなホテル街がある。ホテルで寿司の出前でも取ろうと提案してみようか 。もうすぐ十二時だ。 私は用心深く公衆電話を探して、繭子の携帯ではなく店の電話に連絡を入れた。店の電話は昔ながらのピンクの公衆電話だ。今時、十円玉を入れて使う客もいないだろうに。
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