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午前十二時二十分。
繭子は待ち合わせの春吉橋のたもとに、甲高いハイヒールの音をカッカと鳴らし、豊かな胸を上下に揺らしながら小走りで駆けてきた 。
「 お待たせ、大分待った?」
赤い雨傘を閉じながら繭子は私の傘に強引に入って腕を絡めた。繭子の胸の柔らかさが腕に伝わり、緩くカールした髪から甘い香りが油断していた鼻に届く。心臓がどきりと跳ねた。性懲りも無く。
私の人でなしの計画など露ほど知らず化粧を直してきたのか、私を見上げて微笑むふっくらとした唇は赤く塗られて、繭子は綺麗な顔をしていた。私達はゆっくり橋を渡った。
「接待だったの?」
「ああ」
「携帯は?」
「どうして」
「お店のピンク電話に掛けてくるなんて初めてじゃない 」
「忘れたんだ。店の番号しか分からなかった。公衆電話あちこち探したよ」
「ふーん……」
「店の入りはどうだった」
「うーんぼちぼち」
「そうか早く元に戻ればいいな」
「 どうだろう。元になんか戻るかしら」
「 戻らなきゃ困るじゃないか。どうやって食べて行くんだ」
「大丈夫、私には周ちゃんが付いているから」
「馬鹿、俺はしがないサラリーマンだぞ」
「もう、一流企業のお偉いさんのくせに」
「殺されたいのか」
「怖いこと言わないで」
『馬鹿なやつ。打ち出の小槌がどこにある』
それにしても曲がりなりにも中洲のママの身で、サラリーマンの役職定年のことも知らないのか。「五十五歳の壁」っていうやつだ。 それがもう来たんだよ。頭打ちなんだよ。後は飼い殺しだ。一流も二流も三流もあるものか。役職を解かれ、その内バッジを外せばただの草臥れた中年男だ。悪いな。
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