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恋愛と言っても、実際は、雪乃が一方的に憧れを抱いているに過ぎないほんの小さな恋だ。
わざわざ皆子に話すことのない密やかなもの。
しかしその憧れの人のおかげで、彼女は毎日小さな幸せを感じていた。
その、憧れの人。共通点は、“駅”にある。
雪乃の自宅から最寄り駅までは、徒歩八分。
朝の出勤の時間、その人は必ずその駅にいて、同じ電車を待っているのだ。
少し目を引くくらいに背の高いスーツ姿で、雪乃と同じく眼鏡とマスクをしているため素顔が見えない謎めいた男性。
おまけに最初に見かけた秋からずっと丈の長いコートを着ているため、背の高さ以外にスタイルの良し悪しも分からない。
毎朝いるその人を雪乃が意識し始めたのは、ふとしたきっかけだった。
それは二週間前のこと。
都心に近付き電車内は満員になったある日の朝。
その人の席の前に、六十代くらいの女性が座れずに立っていたことがある。
近くに座っていた雪乃は席を譲ろうかと思ったが、それほど高齢とも言えない女性に表だって譲っては迷惑かも、そんなことを考えては悩ましくなり動けなかった。
しかしそれは杞憂に終わり、ちょうどそのコートの男性が電車を降りたことで、女性は無事にその席に座る。
雪乃はホッと胸を撫で下ろしたのだが、それから二駅先の目的地で雪乃が降車したときのこと。
先ほど降りたはずの男性が、別の車両から降りてくるところを目撃したのである。
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