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それから見かけるたびに観察していた雪乃は、彼が秘密裏に席を譲る行為を、誰にも気付かれず、しかし何度もしていることを知る。
優しさなのか、義務感なのか。
それはよく分からなかったが、なぜか彼のことが気になるようになった。
素顔も見えない、声も聞いたことがない。
謎に包まれたその人のほんの少しの素顔が見えた気がして、それはやがて雪乃の中で膨らんでいき、際限なく美化され続ける。
彼と降車駅も同じだと分かると、さらに、その先も知りたくなった。
せめて駅から出た後、どちらの方向へいくのか。
あるとき雪乃は、彼が降車後、駅の近くのカフェで朝のコーヒーを飲むことが日課だということを突き止めた。
別に後をつけたわけではない。
降車後の彼を意識して見ていれば、容易に目に入る光景だったのだ。
その人のことはそれだけしか知らないが、彼のおかげで男性にまみれ苦痛でしかなかったはずの通勤が、楽しみに変わった。
雪乃は今も彼を思い出すと、素顔や声を妄想しては顔が熱くなるのである。
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