プラネット-2

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プラネット-2

 空は青い。大地には緑が生い茂り、海は透き通るように美しかった。吹き抜ける風を切って、白い鴎が飛んでいく。  クァーラトの背に必死にしがみつきながら、流れていく一瞬一瞬の光景に目を奪われた。降下を終え、身体じゅうにまとわりついたジャンクの火の粉を振り払うように、海面をこするように翼をはばたかせる。 「ここに見えているものも、全部が、あなたのネットなの?」 「その通りだ」 「じゃあ、全て仮想の光景なの?」  この風の匂いも。  この海の音も。  この空の色も。 「君が感じたものは、全て仮想のものであり、全て現実である。そこに区別をつけることはできない」 「どうして?」 「君の身体は肉体ではないし、君の脳は常に別のネットに接続されている。君個人を構成するものは、君の電脳の中に眠る記憶だけ―さっき君も見ただろう?」  光り輝く柱。いくつもの、極小の粒の集まり。 「記憶は、引力を持つ。あらゆる情報がその引力によって集められ、ネットを構築する。時に、引き寄せられる情報の中には、別な誰かのネットも含まれている。アリス、君と私のネットはそれぞれ引き合い、繋がっている。しかし、君が私になることはないし、私が君になることもまた、ありえない。それぞれが持つ記憶という引力は、混じり合うことはないからだ」  クァーラトが翼で空を叩くと、一瞬の強烈な浮遊感と共に高く飛び上がる。海面にざっと、高い波が立った。冷たい水飛沫が、私の顔や身体に引っかかる。波は海面に叩きつけ、猛烈な音を立てて弾けた。  すぐ近くの海面から、流線型の何かが飛び出してきた。それは、群れを成して私たちと同じほうへ泳いでいく、海豚の群れだ。海面から飛び出しては飛び込んで、それを合図に別な個体が飛び出してくる。十数匹の群れが、クァーラトを追いかけるようにして、飛び跳ねてくる。  見渡す限りの、大海原。陸は見えてこない。太陽は高く、海面に黒く私たちの影を落としている。遠くから、巨大な鯨の慟哭のような、物悲しい音が響いた。空には白や黒に塗られた雲が、繋がりあい、重なりあっている。たまに雷雲のように激しく明滅したかと思えば、煙のように風に吹かれて消えたりもする。 「さて、そろそろだよ」  クァーラトの声で我に返った。 「そろそろって?」 「『宮殿(パレス)』のドメインに侵入する。間もなくだ」  見えてきたのは、真っ赤な門のようなものがそびえ立つ小島だった。ふたつの巨大な朱色の柱は、よく見ると島の上ではなく、その沖合十数メートルほどの海に突き立っていた。クァーラトが翼を大きく広げて減速すると、ふわり、ふわりと、うっかり子どもに手を離された風船のように、門の下をくぐった。  その小島には、うっそうと生い茂った森と、白い砂浜しかなかった。  クァーラトは浜に足を下ろすと、首をそっともたげた。降りろ、と言われているような気がして、私は飛び降りた。やわらかい砂の感触に、足を取られそうになって、少しだけよろけた。 「ここは……」  ざあっと、不安をあおるような風が吹く。ふり返って、さっきくぐり抜けた赤い門を見た。水平線の向こう側には、ゆらゆらと陽炎が立ちのぼっている。さっきまで私たちを追いかけてきた海豚たちは、赤い門の向こう側で、私のことをじっと見ていた。まるで哀れまれるかのような視線がちょっぴり嫌で、軽く手を振って目をそらした。  いつの間にか、クァーラトの姿はどこにもなかった。白い砂を手ですくってみると、さらさらと零れ落ちていく中に、微小なガラスのような輝きがあった。 「アリス」  森の奥から、クァーラトの声が聞こえた。そこには四本の足で立つ、銀色に光る牙を持った狼がいた。茶色い毛並みを風になびかせ、にらみつけるように私を見ていた。 「こっちだ。ついておいで」  頷くと、クァーラトは振り返って、薄暗い森の奥へ歩いていく。私もあわてて後を追った。 「ここ、いつか通ったことがある」  森の中には、何百年もそうあったような獣道が整えられていた。クァーラトは時どき立ち止まって、すんすん、と匂いを嗅いだり、喉を鳴らして唸ってみたりした。 「私のネットに、乱れが生じている」  クァーラトはちょっぴり不愉快そうにつぶやいた。 「アリスのネットと接続したから……というには、不自然なノイズだ。やはり、何者かが私たちの行動を監視し、妨害している」 「何者かって……?」 「わからない。しかし、君の義体をクラックした人間と、同一であることは間違いないだろう。今は、こんな姿だから、においには敏感でね」  それは、たぶんクァーラトが言った冗談だろうと、私は思った。思わずくすっという音が、私の喉の奥から漏れた。クァーラトは恥ずかしそうに私に背を向けて、なにも言わずにまた、歩きはじめた。 「ソニアは、大丈夫かな」 「彼女のネットは広大で複雑だ。どんな状況にあっても、冷静に判断し、観察し、対処できる」 「ソニアのことを知っているの?」 「ああ、知っている。ずっと、ずっと前から」 「ずっと前?」 「君が彼女と出会う、ずっと前からだ」 「母さんのことも、ソニアのことも、あなたは私の知らないことをたくさん知っているのね」  森の中の狭い獣道から、急に開けた場所に出た。  半径十メートルくらいの、円形の広場。土色の地面がむき出しになっていて、周囲の森はまるで結界のように、鬱蒼と、暗く、重苦しい。広場の中心には、木で作られた小さな祠があった。崩し過ぎて、なにも読めないような文字が描かれた札が何十枚も貼りつけられ、不気味な雰囲気を醸している。 「ここから『宮殿(パレス)』のドメインに接続する」  クァーラトが臆せず近付いていくのを、私は黙って見ていた。 「君の意識と経験、記憶―アリスのネットそのものを転送する。ただし、あまりに情報としては大きすぎるので、君を一度『凍結』しなければならない」 「凍結……」 「君の義体から、電脳体を引き上げるのは一瞬だった。義体をパージし、君をネットに引きこめばいいだけだからね。だが、『宮殿(パレス)』は、君も知っているように、複雑に入り組んでいて、とても簡単には破れない。抜け穴を開くことが出来るのは、ごくわずかな時間だけだ。その、ごくわずかな間に、君を『宮殿(パレス)』の中へ送り込むには、こうするしかない」  やけに多く出てくる唾を、ぐっと飲み込んだ。クァーラトは狼の鋭い眼光で、私のことをじっと見ていた。でも、私はうなずくしかなかった。 「ソニアのところへ、行かないと」 「『凍結』された君は、自分の力では再起動できない。外部から、君を『解凍』する処理が必要になる。場合によっては、君はずっと閉鎖されたネットの中で、揺蕩い続けるしかなくなる」 「心配ないわ。きっと、ソニアが助けてくれる」  祠に歩み寄り、観音開きの小さな扉を開いた。小さな空間の中には、金色で作られた仏像のようなものと、その周囲を取り囲む小世界が広がっていた。 「あ……」  息を呑んだ。それは、ソニアとはぐれたあの黒い部屋に広がっていた、あの曼荼羅(マンダラ)に描かれた世界と、そっくりだったのだ。  大地を取り囲む龍。背の高い女。不気味に笑う、四足歩行の動物たち。  それらは仄かに発光しだし、祠の中が淡い緑色の光に包まれて、目が眩む。その光がおさまったとき、祠の中には、まるでガラスのように透き通る南京錠がぽつん、と浮かんでいた。  片手にちょうど収まるくらいの大きさ。透明なのに、まるで内部から漏れ出しているように、赤、黄色、緑、藍色……様々な光があふれていた。手を伸ばすと、電気に触れた時みたいに、ざわざわとした感触が指先をむしばむ。 「さあ、」  それまでとは違う声に、思わず振り返った。 「それに触れたら、君は『凍結』する。恐れるな、君に接続されたネットは、どこかで必ず、外部と繋がっている」  狼は消えていた。  代わりに、見覚えのある、とても見覚えのある姿が、そこに立っていた。 「母さん……?」 「行け、アリス」  勝手に右手が伸びて、南京錠を掴んだ。視界が一瞬、かっちりと固定された。次の瞬間、そのままここではないどこかに飛んでいくような、心地よい感覚が私の全てを覆い包んだ。私は、急に懐かしい感じがして、ふっと気を失うかのように眠ってしまった。
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