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地下・プライベートシアター-3
女が吹き飛ばされ、爆炎と共に悲鳴を上げ、塵になっていくのを見ていた。私の身体に触れたとたん、女の身体に輝く溶岩のような亀裂が走って、火花を吹き上げた。そのまま、崩れ落ちていった。
唐突な出来事だった。理解が追い付かないうちだった。暗号屋から足を洗って、何年振りか、「あ、死ぬ」っていう感覚が、全身を駆け巡ったのだ。
しかし、そうはならなかった。
「何があったの……」
視界の中を、膨大な、星のような青が埋め尽くした。
【おいおい、ソニア】
クァーラトの声が、脳内に響いた。
【この程度の状況に対処できないようじゃ、だいぶ疲労しているようだね】
【それとも腕がなまったのかな?】
「何のつもり?」
【僕の目的は、この『宮殿』から外に出ることだ】
【君にここで死なれちゃ、それが果たせない】
「私を、回電死させるんじゃなかったの?」
【そう出来る、という、物の喩えさ】
私は立ち上がって、大きく深呼吸をした。壁に背をつくのも、どこかに座り込むのも、油断ならないという予感があった。自分のこの、二本の足で立っているしかないと思った。クァーラトと私の利害は一致している。どっちにしても、この『宮殿』を攻略するということに、変わりはないのだ。
「ひとつ、借りを作ったわね」
【あとで返してもらおう】
【さあ、ソニア。まずは、ここから出るんだ】
「分かってる」
ぐらぐらするこめかみを抑えながら、何度も深呼吸をした。動悸が止まらない。血液が暴れ回っている。
「分かってるよ。はやくアリスのところに行かないと」
もう、スクリーンには何も映っていない。元通り、のっぺりとした白い面だけをこちらに向けている。あの草刈り鎌の女の気配は、もうない。手元にホロ・ウィンドウを展開する。さっきまで探し回っていたはずの、劇場内部の配電図のデータ。空調が唸る音が、耳を打つ。
スクリーンの両脇に配置された、ふたつの非常口。上手側――客席からスクリーンに向かって右手のほう――の扉は、反対側と同じように固く閉ざされている。しかし、その扉の横、足元の壁をよく見ると、黒く塗られた金属の格子がある。
軽く手をかざすと、仄かに風を感じる。ここが空調の入口なのだ。この広大な空間の全ての空調を、ここひとつで賄っているとは到底考えられない。他にもいくつか、あるはずだ。
格子を掴んで引っ張ると、簡単にそれは外れた。大きさは、だいたい五十センチ四方。くぐって進んでいくには、少々狭すぎる。穴の中に首を突っ込んでみると、すぐ目の前に赤く光る小さなランプを見つけた。指で触れてみると、親指の爪ほどのホロ・ウィンドウが広がった。右手でつまみ取り、穴から首を出す。
「これは……ほぅ」
思わず溜息が漏れた。ウィンドウを拡大すると、そこには何らかの暗号が描かれていた。紙のノートの端に、鉛筆で書いた悪戯書きのような画像データ。「00FFFF」――十六進数だ。
まさか。
スクリーンの真下のコンソール・デバイスを取り出す。表示されるのは、さっきと同じ文言―PRESS THE PASSWORD。
「00FFFF」を入力し、エンターキーを叩く。
すると、真っ白なスクリーンにノイズが走り、壁に張られたポスターをはがすように、鮮やかで暴力的な青に染まった。同時に、ガチャン、という音が聞こえた。下手側の非常口から、まるで、重たい錠を落とすような。
恐る恐る、歩み寄ってドアノブに触れる。それを捻る。重たい扉は、厳かに開いた。拍子抜けするほど、あっさりと。だが、非常口の二重扉、そのさらに外側は、まだ開かないようだった。固く閉じられた扉の、ドアノブをタップしても、何も起こらない。足元の電源アウトレットも、足元を照らすはずの誘導灯にも、付け入る隙がない。
もう一度、劇場の中に戻って深呼吸をする。空調が稼働しているせいか、妙に新鮮な空気が喉を通って、思考を少しクリアにしてくれる。
「とにかく、一歩前進だ」
「00FFFF」―それは混じりっ気のない、シアンを示す色相暗号だ。スクリーンには、のっぺりとした白ではなく、のっぺりとしたシアンが浮かんでいる。手をかざしても、影が映らない。映写機から映し出されたものではなく、スクリーンの自発的な出力によるものだ。
これには、どういう意味があるのだろう?
『宮殿』の設計図を脳内に広げる。配電図、空調の配管図を確認―勝手に足が動いていくように段を昇っていく。A-13席――一番上の段の、一番下手側の席。シートの真後ろの壁の足元に、さっきと同じような格子があった。取り外して中を覗きこむと、そこにはさっきと同じような、爪の先ほどの大きさのホロ・ウィンドウがあった。
拡大する。さっきと同じように、ノートの端の落書きのような「FFFF00」。
スクリーンまで下りて、コンソールに指を置く。さっきまで打ち込んでいたコマンドを取り消し、再度入力する。「FFFF00」―この色相暗号が示すのは、黄色。シアン一色のスクリーンは、地椎瑪瑙の新しい層が顕になるように剥がれ落ち、黄色一色に染まった。また、さっき開いたはずの非常口から、ガチャン、と錠の落ちる音が聞こえた。
内側の扉は、開く。しかし外側の扉は、相変わらず開かないままだった。固く閉ざされている。
「内側から開錠出来ないということは……」
つまりこの扉は、外側から閉じられている。誰か、別の人間に連絡を取って、開けてもらうよりほかないようだった。
どうやって? この『宮殿』にいるのは、私のほかにアリスだけだ。そのアリスとは、連絡が取れないままだ。そうなると、頼りになるのは……
「クァーラト」
【分かっている】
ふふん、と、鼻を鳴らすようにクァーラトは答えた。
【外部から、あの扉を開錠すればいいんだろう?】
「この劇場の内部からだと、『宮殿』のドメインに侵入することは出来ない。散々見回ったし、配電図がそれを物語っているし、それが出来るならとっくにやっているし……悔しいけど、頼りになるのは、あなたしかいない。なんとかして、この扉を外側から開いてほしい」
【いいだろう】
クァーラトは、そのあと私をあざ笑うようにこう言った。
【だが、方法はこちらに任せてもらう。それでもいいね?】
「……、それでいい」
【二つ目の貸しだ】
「いつか返すわ。必ず。暗号屋の誇りに賭けてね」
【ああ。僕をここから出してくれれば、それでいいんだ】
「その為に、あなたの力が必要なの。私に出来ることがあれば、あなたに協力する」
返事はなかった。すっと、背負っていた荷物を下ろしたような気分になった。クァーラトはどこかへ行ってしまったようだった。
歯痒い気持ちもあった。あんな、得体のしれない何者かに頼らざるを得ない、この状況。けれど、そんな自分勝手な感情は二の次だ。私は暗号屋、ソニア・シャオリン。利用できるものは何でも利用して、動かせるものはどうやっても動かしてみせる。
A-1席、最上段の反対側、一番下手側の席の後ろにも、同じような三つ目の空調の穴があった。ホロ・ウィンドウを取り出す動きも、すっかり慣れてきた。
「FF00FF」。これを入力すると、一面のマゼンタがスクリーンに浮かぶことだろう。
シアン。黄色。マゼンタ。
三つの色相暗号が仕込まれた通気口。「0」「0」「F」「F」「F」「F」の、六つの文字。これを組み合わせて作ることのできる色相は、全部で十五通り。もし、これがそれぞれに対応しているのだとしたら、あと十二個の通風孔が存在するはずだ。
脳内の配管図に照らし合わせる。劇場内部に通じている通気口は、全部で十四個。ひとつ、不自然に不足していた。
「これだ……」
残りの通気口にも、同じように色相暗号が仕込まれているとしたら。そして、それが十五通りの組み合わせの内の十四通りを明らかにするものだとしたら。次々と、頭の中で神経が繋がり、電気が駆け巡るような気がした。
残り十一。
甘い誘惑を感じつつも、私は冷めた気持ちでいた。スクリーン下のコンソールに、適当に「0F0FFF」を打ち込んでみる。エンターキーを押しても、何の反応もない。
恐らく、手当たり次第にコンソールに色相暗号を打ち込むだけでは不十分なのだ。通気口の壁に取り付けられた、赤く光るランプ。あれが一種の鍵になっているのだろう。通気口を全て見つけ出し、記された色相暗号を全て回収し、それで初めて解が出る。
身体が急に軽くなるような思いがした。網膜をきらきら走り回る情報が、私の足を動かした。
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