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2F・リビングルーム
アリスと出会ったのは二年ほど前だ。
十四歳で幼少期を過ごしたサマルカンドを飛び出し、欧州を転々としながら、暗号屋として様々な仕事をこなしてきた。理由は特にない。目の前に解の部分が空欄の計算式があったから、解いてしまわずにはいられなかったというだけの話だ。そして私は、たまたま計算が得意だったから―そして周りには、難しい計算を解くほど私をほめてくれる人があふれていた。ただただ、依頼されたとおりに鍵を開き、壁を壊し、多くのものを盗んできた。それによって、苦労とはとても見合わない莫大な報酬を得ることが出来た。
それなりに楽しい日々だったが、数々の電脳犯罪者と対峙し、国際電脳軍隊に追い回され、命を狙われる日々に嫌気がさして、裏のネットから足を洗った。その時は、仕事を斡旋していた有力者や、小さなころから面倒を見てくれた協力者を失ったばかりで、暗号屋の名を捨てるのにそれほど躊躇はなかった。
アリスと出会ったのは、それから一年ほど経ってからだ。ネットを放浪しながら、暇つぶしにホロ・アバターを使った格闘ゲームに興じているとき、彼女と出会った。そしてネット上で交流を続けているうちに、きょうの日が訪れた。私がかつて電脳技師の真似事のようなことをしていたのだと告げるや否や、「ぜひ家に招待させてほしい」と、熱を込めたメッセージを何度も送られ、遠慮していた私の方が根負けした形だ。
「どうぞ?」
という言葉に促されて、コーヒーを飲む。インスタントだったけれど、部屋の雰囲気のためか、いつも飲んでいるものより格段に美味しかった。
「家に名前があるって、不思議ね。外見よりも、ずっと大きいってことかしら」
「ええ、とても大きいわ」
アリスが空間をタッチすると、ホロ・ウィンドウが広がり、ドキュメントが開いた。手渡されたその表紙には、乱雑な字でpalaceと書かれていた。開くと、そこには事細かに記された、この家の設計図が何百ページにもわたって記されていた。
「これ、このリビング?」
「そうそう。ここが玄関ホールで、ここが……私の部屋」
「宮殿みたいだと思ってたら、本当に『宮殿』なのね」
「とても不便よ。大きいだけで」
「家が広いと楽しそうね。ひとつの部屋に飽きたら、別の部屋を模様替えして使ったり、家の中を歩き回るだけで、退屈もまぎれそうだし」
「こんなところ、歩き回るだけで目が回りそう」
「自分の家なのに?」
「それが、良く分からないの」
アリスは私の隣に腰を下ろして、細い指先で設計図のドキュメントをスクロールし始めた。
「もともとこの家に住む予定だったのは、私と父さん、それに母さんだけだったのに―たった親子三人暮らすのに、この家は広すぎるし、大きすぎる。私でも行ったことの無い部屋が、まだまだたくさんある」
「どんな部屋があるの?」
設計図をめくっていくと、中ほどのページに全体の見取図があった。
『宮殿』は地上三階、地下一階の四フロア構成で。屋上へと続く階段が二階の最東の部屋から伸びている。
建物のちょうど中央に、地下から地上までを貫いている太く巨大な柱が突き刺さり―ちょうど玄関ホールで見たあれのことだろう―、部屋数は全部で十七。各階に四部屋ずつ、二階だけはエントランスホールが加わって五部屋。
廊下というものは存在しておらず、部屋と部屋が扉で直接区切られていて、それぞれの部屋から階段が上下に伸びたり、繋がったりしている。
「ここに暮らしてしばらく経つけど、まだ、見たこともない部屋があるわ」
アリスの言葉に私は耳を疑った。
「なぜ? あなたの家なのでしょう?」
「入れないの―ううん、見つけられない。どうやっても扉が見つからない、見つけても鍵がかかっていて入れなかったりするの。玄関と、私の部屋、それからこのリビング」
指先でホロ・ウィンドウをタップすると、次々に赤い色が浮かんで、部屋が染められていく。まるで水彩画のように、じわっと色が広がっていくのが、美しかった。空白のままの部屋がいくつもあるので、そこを指先で軽く触れてみても、なんともならない。
「ソニア―あなたをこの家に招待したのはね、他でもないわ」
アリスは不意に切り出した。
「私と一緒に、この『宮殿』を探検してほしいの。この建物には、分からないことがいくつもあるから、力を貸してほしい」
肩がすくまる。
「そういうことだったのね」
「私はこの家に住んでいるけど、そういうことには疎いから」
「分かった。いいよ」
コーヒーを飲み干してソーサーに置くと、軽い感触と共に乾いた陶器の音がする。こめかみの辺りを指で叩くと、浮かび上がったホロ・ウィンドウで数字がめまぐるしく回転する。視界にいくつもの情報が流れ込んできて、ステンドグラス越しの光のように奇妙なパターンを見せた。アリスは私の様子を、少し不安げそうな笑顔でのぞき込んでいた。
アリスから設計図が内蔵されたドキュメントを受け取り、食パンのように口に運ぶ。頭の中に膨大な情報が流れ込んできて、ほんとうにものを食べているわけじゃないのにもどしてしまいそうになる。気のせいだと必死に言い聞かせて、飲み込むと、瞬時にいくつもの見取図が、網膜を走り去っていく。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ――ただの情報酔い―ものすごい量の設計図だね。それに、構造は単純なのに複雑で―いくつも重なって、微鉛結晶みたいに……」
会話をしているうちに情報の密度と、その異質さにもだいぶ慣れてきた。アリスの手が私の肩に置かれると、それがスイッチになって一気に視界に映るあらゆる虚実が、鮮明に輪郭を帯びた。情報は眼球の中に溶けて、風景と一体化した。空に浮かぶ雲のような、自然なデータへと私の中で変化したのだ。
「もう一杯、コーヒー、貰っていいかな。ちょっと休憩したら、早速探検に出かけよう」
「大丈夫? 顔色が悪いわ」
「逆だよ、顔色が良くなったの」
「でも真っ青よ。それに、目がちょっと腫れぼったくなってる気がする」
「そうなったように見えるだけ」
新しい情報を取り入れるたび、私の姿は少しずつ変化していく。人間が食べ物によって太ったり、血行が促進されたりするようなものだ。アリスは私のカップとソーサーを持って立ち上がり、台所の方へ消えていった。目を閉じてじっと落ち着くと、脳の後ろの方でぐるぐる情報が回る。それら一つ一つに、もう一度目を通しながら、この『宮殿』の構造をかみ砕き、情報に神経を通す。
アリスが持って来たコーヒーを、ごっと口に含むと、きりきり苦かった。
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